い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。
[#ここで字下げ終わり]
一月×日[#「 一月×日」は底本では「一月×日」]
おどろおどろ[#「おどろおどろ」に傍点]した雪空だ。
朝の膳の上は白い味噌汁に、高野豆腐に黒豆、何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかり、いっそ京都か大阪で暮らしてみよう……。
天保山の安宿の二階で、ニャーゴニャーゴ鳴いている猫の声を寂しく聞きながら私は寝そべっていた。
あゝこんなにも生きる事はむずかしいものか……私は身も心も困憊しきっている。
潮たれた蒲団はまるで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。
ビュン! ビュン! 風が海を叩いて、波音が高い。
からっぽな女は私でございます……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ生きてゆく美しさもない。
さて残ったものは血の多い体ばかり。
私は退屈すると、片方の足を曲げて、キリキリと座敷の中をひとまわり。
長い事文字に親しまない目には、御一泊壱円より[#「御一泊壱円より」に傍点]と白々しく壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
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