川の綺麗なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始めて、私は一年徳島での春秋を迎えた事がある。
 だがそれも小さかった私……今はもう、この旅人宿も荒れほうだいに荒れ、母一人の内職仕事になってしまった。
 父を捨て、母を捨て、長い事東京に放浪して疲れて帰った私も、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥の底にひっくり返してみると懐しい昔のいゝ夢が段々蘇って来る。
 長崎の黄ろいちゃんぽん[#「ちゃんぽん」に傍点]うどんや尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄や、あゝみんないゝ!
 絵をならい始めた頃の、まずいデッサンの幾枚かゞ、茶色にやけて、納戸の奥から出て来ると、まるで別な世界だった私を見る。
 夜炬燵にあたっていると、店の間を借りている月琴ひき[#「ひき」に傍点]の夫婦が漂々と淋しい唄をうたっては、ピンピン昔っぽい月琴をひゞかせていた。
 外はシラシラと音をたてゝみぞれまじりの雪が降っている。

 十二月×日
 久し振りに海辺らしいお天気。
 二三日前から泊りこんでいる、浪花節語りの夫婦が、二人共黒いしかん[#「しかん」に傍点]巻を首にまいて朝早く出て行くと、もう煤
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