隆吉は何かの詩句にあつた、この文章が好きで、朝、白い月の殘つてゐる時なぞ、ひとしほこの思ひが濃く胸の中を去來して、人戀しくなるのである。――亮太郎が時々冗談にことよせて、茶飮み友達がなくちやア淋しいね。三十八になる未亡人があるのだが、隆吉さん、どうです? 結婚する氣はありませんかと云つた事があつた。今さら女房を貰つて無駄な苦勞はしたくないねと云つてはみたものの、隆吉もまだ老春《らうしゆん》らしき氣配はあつた。まんざら女がいらないわけではなかつた。痛切に欲しいと思ふ時もあつたが、妙子の成長する姿を見てゐると、もうすべて、男のいやしい慾望は捨てなければならぬと悟つてもみる。
 いまさら女房を貰つて、あと何年間か、つまらぬくりかへしを營んだところで、それが何であらうと思ふのであつたけれども、糸子が病みついて亡くなつてから、まる五年と云ふもの、隆吉は僧侶のやうな精進けつぱく[#「けつぱく」に傍点]な生活をおくつてゐた。幸ひその間は戰爭つゞきで、あわただしく過してゐたせゐもあつて、別に生身《なまみ》な男の淋しさと云ふものを味はつた事はなかつた。さうしたきざし[#「きざし」に傍点]があれば、
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