。いつか、その魚屋の前を通っていたら、知りもしないのに、その子は私に呼びかけた。
「魚が、こぎゃん、えっと、えっと、釣《つ》れたんどう、一|尾《び》やろうか、何がええんな」
「ちぬご[#「ちぬご」に傍点]」
「ちぬご[#「ちぬご」に傍点]か、あぎゃんもんがええんか」
 家の中は誰もいなかった。男の子は鼻水をずるずる啜りながら、ちぬご[#「ちぬご」に傍点]を新聞で包んでくれた。ちぬご[#「ちぬご」に傍点]は、まだぴちぴちして鱗が銀色に光っていた。
「何枚着とるんな」
「着物か?」
「うん」
「ぬくいけん何枚も着とらん」
「どら、衿を数えてみてやろ」
 男の子は、腥い手で私の衿を数えた。数え終ると、皮剥《かわは》ぎと云う魚を指差して、「これも、えっとやろか」と云った。
「魚、わしゃ、何でも好きじゃんで」
「魚屋はええど、魚ばア食える」
 男の子は、いつか、自分の家の船で釣りに連れて行ってやると云った。私は胸に血がこみあげて来るように息苦しさを感じた。
 学校へ翌《あく》る日行ってみたら、その子は五年生の組長であった。


 10[#「10」は縦中横] 誰の紹介《しょうかい》であったか、父は、どれでも一瓶《ひとびん》拾銭の化粧水《けしょうすい》を仕入れて来た。青い瓶もあった。紅《あか》い瓶も、黄いろい瓶も、みな美しい姿をしていた。模様には、ライラックの花がついて、きつく振ると、瓶の底から、うどん粉のような雲があがった。
「まあ、美しか!」
「拾銭じゃ云うたら、娘達や買いたかろ」
「わしでも買いたか」
「生意気なこと云いよる」
 父はこの化粧水を売るについて、この様な唄をどこからか習って来た。
[#ここから2字下げ]
一瓶つければ桜色
二瓶つければ雪の肌
諸君! 買いたまえ
買わなきゃ炭団《たどん》となるばかし。
[#ここで字下げ終わり]
 父は、この節に合せて、風琴を鳴らす事に、五日もかかってしまった。
「早よう売らな腐る云いよった」
「そぎゃん、ひど[#「ひど」に傍点]かもん売ってもよかろか?」
「ハテ、良かろか、悪かろか、食えんもな、仕様がなかじゃなッか」

 尾の道の町はずれに吉和《よしわ》と云う村があった。帆布《はんぷ》工場もあって、女工や、漁師の女達がたくさんいた。父はよくそこへ出掛けて行った。
 私は、こういうハイカラな商売は好きだと思った。私は、赤い瓶を一ツ
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