風琴と魚の町
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)上手《じょうず》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)私|達《たち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]
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 1 父は風琴を鳴らすことが上手《じょうず》であった。
 音楽に対する私の記憶《きおく》は、この父の風琴から始まる。
 私|達《たち》は長い間、汽車に揺《ゆ》られて退屈《たいくつ》していた、母は、私がバナナを食《は》んでいる傍で経文を誦《ず》しながら、泪《なみだ》していた。「あなたに身を託《たく》したばかりに、私はこの様《よう》に苦労しなければならない」と、あるいはそう話しかけていたのかも知れない。父は、白い風呂敷包《ふろしきづつ》みの中の風琴を、時々|尻《しり》で押《お》しながら、粉ばかりになった刻み煙草《たばこ》を吸っていた。
 私達は、この様な一家を挙げての遠い旅は一再ならずあった。
 父は目蓋《まぶた》をとじて母へ何か優《やさ》し気《げ》に語っていた。「今に見いよ」とでも云《い》っているのであろう。
 蜒々《えんえん》とした汀《なぎさ》を汽車は這《は》っている。動かない海と、屹立《きつりつ》した雲の景色《けしき》は十四|歳《さい》の私の眼《め》に壁《かべ》のように照り輝《かがや》いて写った。その春の海を囲んで、たくさん、日の丸の旗をかかげた町があった。目蓋をとじていた父は、朱《あか》い日の丸の旗を見ると、せわしく立ちあがって汽車の窓から首を出した。
「この町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」
 母も経文を合財袋《がっさいぶくろ》にしまいながら、立ちあがった。
「ほんとに、綺麗《きれい》な町じゃ、まだ陽《ひ》が高いけに、降りて弁当の代でも稼《かせ》ぎまっせ」
 で、私達三人は、おのおのの荷物を肩《かた》に背負って、日の丸の旗のヒラヒラした海辺の町へ降りた。
 駅の前には、白く芽立った大きな柳《やなぎ》の木があった。柳の木の向うに、煤《すす》で汚《よご》れた旅館が二三|軒《げん》並《なら》んでいた。町の上には大きい綿雲が飛んで、看板に魚の絵が多かった。
 浜《はま》通りを歩いていると、ある一軒の魚の看板の出た家から、ヒュッ、ヒュッ、と口笛《くちぶえ》が流れて来た。父はその口笛を聞く
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