な平和さが、廣太郎には、またたまらない氣持である。
「私は、子供たちを連れて、姫路へかへらうかとおもひますけど‥‥」
翌る朝、ふじ子は呆んやりそんなことを云つてみた。廣太郎は寢床で新聞を讀んでゐたけれど、新聞から顏をはなさないでいつまでも默つてゐる。
「男の方つて、自分勝手なことをして平氣だけれど、とても、私には苦しくて我慢が出來ないわ‥‥」
「がまんが出來なければ勝手にすればいゝだらう」
一寸可哀想だとは思つたけれど、つい、こんな亂暴な言葉がづけづけと口をついて出て來る。ふじ子はそのまゝ次の部屋へ去つてしまつた。――廣太郎は、このまゝ、當分、會社も休んでしまつて、田舍へ資金調達にかへり、自分一人で新しい仕事をしてみるのもいゝなと思つた。あんな會社に生涯働いてゐたところで、自分はいつたいどれだけの成功が得られると云ふのだらう。子供が成長してゆくとともに自分は衰へて、やがて何も出來ない年齡に老い果てて來るのだ。ふじ子は、酒を飮む金があれば一坪の家でも得られると云ふのだつたが、一坪の家と云ふことが、廣太郎にはまた癪にさはつて仕方がないのだ。
會社へも行かないで、その夜、廣太郎は、誰にも默つて下關行きの汽車に乘つてゐた。
3
「健ちやん、眠つたの‥‥」
「うゝん、なアに?」
「健ちやんは男の子だから、お父さんがおいでと云つたら、お父さんのところへ行く?」
「厭だい!」
「だつて、お母さんは健ちやんだの、ちいちやんだのつて二人も育てられないもの」
「お父さん、すぐ歸ると云つたよ」
「お父さんはもう戻らないのよ」
「何故?」
「何故でも‥‥」
健吉はくるりとふじ子の方へ寢がへりをうつて來て、そつと母の乳房を着物の上からばたばた叩いてゐた。
ふじ子は子供の小さい手で、乳房を叩かれながら、しみじみと孤獨な氣持である。――田舍の女學校を卒業して、世の常の娘のやうに、自分も希望に燃えてこの東京へ出て來たのだ。上京すると、ふじ子は間もなく知人の世話で中央郵便局の事務員になつた。事務員を二年ほどしてゐるうちに、知人の家に下宿をしてゐる木山と云ふ早稻田の法科に通つてゐる學生と戀におちたが、間もなく、木山とは、何の關係もなく別れてしまひ、世話をする人があつて、廣太郎と平凡な結婚をしたのであつた。
考へてみると、呆れるほど平凡な八年間であり、ふじ子は二人の子供を養育す
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