るやうな、媒介物もみあたらない。廣太郎はいつそ、この職業を捨ててしまつて、他に何か新しい職業をみつけてみようかとも考へてゐた。
一生涯、人の山林を歩き、人の邸のなかをのぞいて値ぶみをして歩くことは、自分の生涯の主軸としてはなさけない氣持がしてならなかつた。よしツ! 俺は何かやらう‥‥酒の力をかりて、時には明日にでも、現在の職業から離れ得る自信に滿々とした思ひを持ちながら、家へかへつて來ると、妻や子供のうす汚なさに引きずられて、ずるずると他愛もなく無爲な歳月が過ぎていつてしまふ。
八重子が廣太郎の前へ現れたのは、丁度、こんな時分であつた。――八重子は、銀座裏の酒場の女給をしてゐて、年は二十三だと云つてゐた。千葉の女で、まだ田舍から出て來たばかりらしく、着物のこのみも、化粧のしかたも土くさい感じだつたが、八重子は非常におとなしかつたので、荒んでゐる廣太郎の興味をそゝつた。
八重子は芝の三田小山町に弟と二人で、二階借りをして住んでゐた。弟は晝間は會社の給仕をしてゐて夜は夜學に行つてゐる樣子である。――自分の生活が、八重子とのさゝやかな戀愛で、こんなに明るく燃えあがらうとは思はなかつたし、しかも、大學を出たての青年のやうに、野心が躯ぢゆうにみなぎつて來るこのごろを、廣太郎はくすぐつたく考へてゐた。
ふじ子は、急に良人の生々としてきたそぶりをみせつけられると、妻らしい敏感さで第六感を働かしてゐるやうであつた。別に根掘り葉掘りのありさまではなかつたけれど、悶々としてゐるところが廣太郎には察しられてゐた。
こんな、むしむしした夫婦の状態が半年ばかりもつゞき、廣太郎は自分でも大人氣ないとは思ひつゝも、たうとう家を出てしまひ、八重子と郊外の宿屋で二三日遊びつづけてゐた。
たとひ我《われ》わが財産《たから》をことごとく施し、又わがからだを燒かるゝ爲に付《わた》すとも、愛なくば我に益なし。コリント書の一節をくちずさみながら八重子のそばにゐることを、廣太郎は幸福に感じてゐた。女のあさぐろい皮膚は、いま海からあがつたやうな、鹽つぽさと新鮮さがあつて、このまゝ海の底ふかく溺れてしまつてもよいやうな、そんな男の熱情をかきたててくれる。
廣太郎が疲れて家へ戻つて來たのは、家を出てから四日目の夜であつた。ふじ子は默つてゐた。子供たちもいやにおとなしかつた。何かひそんでゐるやうな不氣味
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