濡れた葦
林芙美子
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《》:ルビ
(例)我《われ》
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女中にきいてみると、こゝでは朝御飯しか出せないと云ふことで、ふじ子はがつかりしてしまつた。子供たちは、いかにも心細さうにあたりをながめてゐる。ふじ子はひよいとしたら、丼物でもとつてもらへるかも知れないと、女中に、何か食べものを取りよせてもらへるかときいてみた。
「さうですねえ、お蕎麥か、親子丼ぐらゐのとこでしたら‥‥」
「ぢやア、親子丼とうどんかけを一つづつ取つて下さいませんか」
女中が階下へおりてゆくと、ふじ子は暑いので帶をといた。障子をあけると、ふつと椎の木のむせるやうな匂ひが流れてきた。
「いま、おいしい御飯が來るから待つてゐらつしやい‥‥」
ふじ子は、子供たちの疲れた顏を見ると、冷い手拭で二人の顏を拭いてやりたいとおもひ、廊下へ出て洗面所を探した。廊下のつきあたりが窓になり、そこから、電車通の賑やかなネオンサインが見える。表は西洋館まがひで、ペンキで新しさうに塗りたてたこの旅館も、なかへはいつてみると古ぼけた造作で、新宿の賑やかな通りに、こんな古めかしい旅館があるとはおもへないくらゐだつた。
もう遲いので、女中が蒲團をかゝへて梯子段をあがつて來た。ふじ子はその女に洗面所をきいて、暗い梯子段を階下へ降りていつた。洗面器が三ツ四ツ、暗い流しに伏せてある。ふじ子は銹びたやうな水道のガランをひねつて、ぬるい水を洗面器にたゝへた。
生きてゆくためには、どのやうな手段法則をもいとはないのだけれど、二人の子供のことを考へると、ふじ子はどうにも仕方のない現實を感じるのであつた。親子三人やつとで、猛火をくゞり拔けて來たやうなそんな氣がして來る。ぬるい水のなかへ顏をひたしてゐると、急に鼻の奧が涙で燒けるやうになり、ぐつぐつと眼に熱いものがつきあげて來た。
細い聲でこほろぎがないてゐる。
ふじ子は、つくづく敗滅の人生を感じずにはゐられなかつた。――明日になつたら木谷に電話をかけて、宿へ來て貰はうと考へ、これからさきのことは、暗く怖しくとも、いまだけは、どうにかこの生活からのがれることが出來ればいゝと思へた。
手拭をしぼつて部屋へかへつてゆくと、もう丼物が來てゐて
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