てしまひました。此青葉の風景に醉つてしまつたのでせう。――湯ヶ島は谷底に家があつて、カジカでもゐさうな落合川が、谷の峽《あひだ》を白く流れてゐます。
 落合樓と云ふのに泊りました。こゝでは始めて灯の下に本を出して讀みたい氣持ちになりました。――温泉が豐富で人氣のない夜更けの風呂場に伸々と體を沈めてゐると、生きてゐる愉しさが、まるで風のやうに吹きあがつて來ます。あんなボコボコ石の煙の中へは、どんな考へで死に行くひとが多いのか、今日の新聞を見てゐると、三原山に飛びこんだ青年の事が出てゐますが、全く不思議な事だ。せめて死ぬときだけでも風景の美しいところに身を置きたいものです。
 溪流の音が、しみじみ山里へ來てゐる感じです。夜更けて珊瑚集を一册讀了しました。詩集の讀めるやうな風景と云ふものは、中々に得難く、眠るのがをしいので、枕元にヱハガキなぞを並べて子供のやうに愉しむのです。
 私は旅へ出ると、夜は早々に眠れるのですが、此樣に眠るのがをしいと思へるのは、あんまり靜かで落ちついてゐるからでせう。
 旅果てと云つた氣持ちです。もうこれでおしまひと云つた感じで、夜明けも早々に起きて、温泉に這入りに
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