だけに實に素晴らしく隨分いまゝでに色々な風景も見ましたけれど、此樣に美しい山峽をいまだかつて知りません。
下田の町を出て、湯ヶ野を越すあたりから、山の屋根が濶達になつて、山肌一面山櫻の谷があつたり、瀧を眼近く眺めたりしました。自動車道は、割合廣いので、乘物にも乘れないなぐれ[#「なぐれ」に傍点]た旅びとなぞが、トンネルの入口なぞから、ひよいと出て來たりして愕かせる時があります。
伊豆の此旅は、同じ伊豆の中でありながら、大島の青葉とくらべて、瞼に緑が沁みると沁みないだけの違ひのやうです。湯ヶ野から湯ヶ島へかけての谷間の樹のしたみちは、顏も手も染まりさうに薄い緑で、笹藪のこんもりしたのなぞは、全く青春を包んだ喪の小屋のやうで、あの中を覗いたら、火花のやうなかげろふ[#「かげろふ」に傍点]が散りさうです。私は、此樣に小説的な風景を見た事がありません。
栂や栗、柳、松、櫻、杏、桃、梅、椎の木や楡《にれ》の木、そんなのが何でもあるのでせうが、山を越えても越えても美しい樹が續いてゐます。
五信
まるで、何かを追ひ求めてゐるやうに、東京にも歸へらず、途中の湯ヶ島で乘合自動車を降り
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