と一緒にモータアボートに乘せて貰つて、下田の沖を走つたのですが、春の逝きかけた淺緑の山の手前を、波を蹴つて飛んで行くのは實に愉快です。吉田松陰と澁木松太郎が、黒船に乘る機會を長い間うかゞつてゐたと云ふ岬の岩穴も海の上から見ました。偶と、
「泣かんか愚人の如く、笑はんか惡漢の如し」と云つたと云ふ松陰の言葉をおもひ出します。
 海の上から見る山は美しい。中でも、女の寢たやうな寢姿山は、下田の町と妙にしつくりしてゐて、慰さめられる風景でした。ひどく海に飽いてしまつたのか、こゝでは休息だけにして、下田から東京までの切符を買つてしまひました。修善寺まで連絡の乘合自動車ですが、大變乘り心地のいゝものです。
 自動車はまるで、馬車屋さんのやうに、古風な喇叭をつけてゐて、大きな體で下田の町を拔けて行きます。
 寺の入口に地藏樣が並んやゐたり、生の椎茸が河ツぷちに干してあつたり、金色に光つた笹藪なぞが多く、下田の町はづれは、汽車が通じてゐないだけに、温く優さしいところで、旅人らしいくつろぎも、こんなところでこそ休めたいなど考へられます。
 下田から、修善寺まで三時間もあるのですが、此途中の風景は山峽の道
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