れど、シボレーの古自動車なので、雨がガラス窓に叩かれるたび、霧のようなしぶきが車室にはいってくる。そのたそがれた櫟の小道を、自動車が一台通ったきりで、雨の怒号と、雷と稲妻。
「こんな雨じゃア道へ出る事も出来ないわね。」
松つぁんは沈黙って煙草を吸っている。こんな善良そうな男に、芝居もどきのコンタンはあり得ない。雨は冷たくていい気持ちだった。雷も雨も破れるような響きをしている。自動車は雨に打たれたまま夜の櫟林にとまってしまった。
私は何かせっぱつまったものを感じた。機械油くさい松さんの菜っぱ服をみていると、私はおかしくもない笑いがこみ上げて来て仕方がない。十七八の娘ではないもの。私は逃げる道なんか上手に心得ている。
私がつくろって言った事は、「あんたは、まだ私を愛してるとも云わないじゃないの……暴力で来る愛情なんて、私は大嫌いよ。私が可愛かったら、もっとおとなしくならなくちゃア厭!」
私は男の腕に狼《おおかみ》のような歯形を当てた。涙に胸がむせた。負けてなるものか。雨の夜がしらみかけた頃、男は汚れたままの顔をゆるめて眠っている。
遠くで青空《れいめい》をつげる鶏の声がしている。朗かな夏の朝なり。昨夜の汚ない男の情熱なんかケロリとしたように、風が絹のように音をたてて流れてくる。この男があの人だったら……コッケイな男の顔を自動車に振り捨てたまま、私は泥んこの道に降り歩いた。紙一重の昨夜のつかれ[#「つかれ」に傍点]に、腫《は》れぼったい瞼を風に吹かせて、久し振りに私は晴々と郊外の路を歩いていた。――私はケイベツすべき女でございます! 荒《すさ》みきった私だと思う。走って櫟林を抜けると、ふと松さんがいじらしく気の毒に思えてくる。疲れて子供のように自動車に寝ている松さんの事を考えると、走って帰っておこしてあげようかとも思う。でも恥かしがるかもしれない。私は松さんが落ちついて、運転台で煙草を吸っていた事を考えると、やっぱり厭な男に思え、ああよかったと晴々するなり。誰か、私をいとしがってくれる人はないものかしら……遠くへ去った男が思い出されたけれども、ああ七月の空に流離の雲が流れている。あれは私の姿だ。野花を摘み摘み、プロヴァンスの唄でもうたいましょう。
(八月×日)
女給達に手紙を書いてやる。
秋田から来たばかりの、おみきさんが鉛筆を嘗めながら眠りこんでいる。酒場ではお上さんが、一本のキング・オブ・キングスを清水で七本に利殖しているのだ。埃と、むし暑さ、氷を沢山呑むと、髪の毛が抜けると云うけれど、氷を飲まない由ちゃんも、冷蔵庫から氷の塊を盗んで来ては、一人でハリハリ噛んでいる。
「一寸! ラヴレーターって、どんな書出しがいいの……」
八重ちゃんが真黒な眼をクルクルさせて赤い唇を鳴らしている。秋田とサガレンと、鹿児島と千葉の田舎女達が、店のテーブルを囲んで、遠い古里に手紙を書いているのだ。
今日は街に出てメリンスの帯を一本買うなり。一円二銭――八尺求める――。何か落ちつける職業はないものかと、新聞の案内欄を見てみるけれどいい処もない。いつもの医専の学生の群がはいって来る。ハツラツとした男の体臭が汐《しお》のように部屋に流れて来て、学生好きの、八重ちゃんは、書きかけのラヴレーターをしまって、両手で乳をおさえてしな[#「しな」に傍点]をつくっている。
二階では由ちゃんが、サガレン時代の業《ごう》だと云って、私に見られたはずかしさに、プンプン匂う薬をしまってゴロリと寝ころんでいた。
「世の中は面白くないね。」
「ちっともね……」
私はお由さんの白い肌を見ていると、妙に悩ましい気持ちだった。
「私は、これでも子供を二人も産んだのよ。」
お由さんはハルピンのホテルの地下室で生れたのを振り出しに、色んなところを歩いて来たらしい。子供は朝鮮のお母さんにあずけて、新らしい男と東京へ流れて来ると、お由さんはおきまりの男を養うためのカフエー生活だそうだ。
「着物が一二枚出来たら、銀座へ乗り出そうかしらと思っているのよ。」
「こんなこと、いつまでもやる仕事じゃないわね、体がチャチになってよ。」
春夫の東窓残月の記を読んでいると、何だか、何もかも夢のようにと一言眼を射た優しい柔かい言葉があった。何もかも夢のように……、落ちついてみたいものなり。キハツで紫の衿《えり》をふきながら、「ゆみちゃん! どこへ行ってもたより[#「たより」に傍点]は頂戴ね。」と、由ちゃんが涙っぽく私へこんなことを云っている。何でもかでも夢のようにね……。
「そんなほん[#「ほん」に傍点]面白いの。」
「うん、ちっとも。」
「いいほん[#「ほん」に傍点]じゃないの……私高橋おでんの小説読んだわ。」
「こんなほん[#「ほん」に傍点]なんか、自分が憂鬱になるきりよ。」
(八月×日)
よそへ行って外のカフエーでも探してみようかと思う日もある。まるでアヘンでも吸っているように、ずるずるとこの仕事に溺れて行く事が悲しい。毎日雨が降っている。
――ここに吾等は芸術の二ツの道、二ツの理解を見出す。人間が如何《いか》なる道によって進むか。夢想! 美の小さなオアシスの探求の道によってか、それとも能動的に創造の道によってかは、勿論《もちろん》、一部分理想の高さに関係する。理想が低ければ低いほど、それだけ人間は実際的であり、この理想と現実との間の深淵《しんえん》が彼にはより少く絶望的に思われる。けれども主として、それは人間の力の分量に、エネルギイの蓄積に、彼の有機体が処理しつつある栄養の緊張力に関係する。緊張せる生活はその自然的な補いとして創造、争闘の緊張、翹望《ぎょうぼう》を持つ――女達が風呂に出はらった後の昼間の女給部屋で、ルナチャルスキイの「実証美学の基礎」を読んでいると、こんな事が書いてあった。――ああどうにも動きのとれない今の生活と、感情の落ちつきなさが、私を苦しめるなり。私は暗くなってしまう。勉強をしたいと思うあとから、とてつもなくだらしのない不道徳な野性が、私の体中を駈《はし》りまわっている。みきわめのつかない生活、死ぬるか生きるかの二ツの道……。夜になれば、白人国に買われた土人のような淋しさで埓《らち》もない唄をうたっている。メリンスの着物は汗で裾にまきつくと、すぐピリッと破けてしまう。実もフタ[#「フタ」に傍点]もないこの暑さでは、涼しくなるまで、何もかもおあずけで生きているより仕方もない。
何の条件もなく、一カ月三十円もくれる人があったら、私は満々としたいい生活が出来るだろうと思う。
*
(十月×日)
一尺四方の四角な天窓を眺めて、初めて紫色に澄んだ空を見たのだ。秋が来た。コック部屋で御飯を食べながら、私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。秋はいいな。今日も一人の女が来ている。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女なり。ああ厭になってしまう、なぜか人が恋しい。――どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいい私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようなものだ。
(十月×日)
広い食堂《ホール》の中を片づけてしまって初めて自分の体になったような気がした。真実《ほんとう》にどうにかしなければならぬ。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋に帰るのだけれども、一日中立ってばかりいるので、疲れて夢も見ずにすぐ寝てしまうのだ。淋しい。ほんとにつまらない。住み込みは辛いと思う。その内、通いにするように部屋を探したいと思うけれども何分出る事も出来ない。夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと眼を開けていると、溝《どぶ》の処だろう虫が鳴いている。
冷たい涙が腑甲斐《ふがい》なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。何とかしなくてはと思いながら、古い蚊帳の中に、樺太《からふと》の女や、金沢の女達と三人枕を並べているのが、私には何だか小店に曝《さら》された茄子《なす》のようで侘しかった。
「虫が鳴いてるわよ。」そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいわね。」とお秋さんが云う。
梯子段の下に枕をしていたお俊さんまでが、「へん、あの人でも思い出したかい……」と云った。――皆淋しいお山の閑古鳥《かんこどり》だ。うすら寒い秋の風が蚊帳の裾を吹いた。十二時だ。
(十月×日)
少しばかりのお小遣いが貯《たま》ったので、久し振りに日本髪に結ってみる。日本髪はいいな。キリリと元結を締めてもらうと眉毛が引きしまって。たっぷりと水を含ませた鬢出《びんだ》しで前髪をかき上げると、ふっさりと前髪は額に垂れて、違った人のように私も美しくなっている。鏡に色目をつかったって、鏡が惚《ほ》れてくれるばかり。こんなに綺麗に髪が結えた日には、何処《どこ》かへ行きたいと思う。汽車に乗って遠くへ遠くへ行ってみたいと思う。
隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって田舎へ出す手紙の中に入れておいた。喜ぶだろうと思う。手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの。
ドラ焼を買って皆と食べた。
今日はひどい嵐なり。雨がとてもよく降っている。こんな日は淋しい。足が石のように固く冷える。
(十月×日)
静かな晩だ。
「お前どこだね国は?」
金庫の前に寝ている年取った主人が、この間来た俊ちゃんに話しかけていた。寝ながら他人の話を聞くのも面白いものだ。
「私でしか……樺太です。豊原《とよはら》って御存知でしか?」
「へえ、樺太から? お前一人で来たのかね?」
「ええ……」
「あれまあ、お前はきつい女だねえ。」
「長い事、函館の青柳町にもいた事があります。」
「いい所に居たんだね、俺も北海道だよ。」
「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの訛《なまり》がありますもの。」
啄木の歌を思い出して私は俊ちゃんが好きになった。
[#ここから2字下げ]
函館の青柳町こそ悲しけれ
友の恋歌
矢車の花。
[#ここで字下げ終わり]
いい歌だと思う。生きている事も愉しいではありませんか。真実《ほんとう》に何だか人生も楽しいもののように思えて来た。皆いい人達ばかりである。初秋だ、うすら冷たい風が吹いている。侘しいなりにも何だか生きたい情熱が燃えて来るなり。
(十月×日)
お母さんが例のリュウマチで、体具合が悪いと云って来た。もらいがちっとも無い。
客の切れ間に童話を書いた。題「魚になった子供の話」十一枚。何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。可哀想なお母さん、ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配しています。
と思う。
「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいいよ。」
三年もこの家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のききかたで私をさそってくれた。
「ええ……行きますとも、何時《いつ》でも泊めてくれて?」
私はそれまで少し金を貯めようと思う。こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがあるのだ。
「私はねえ、もう愛だの恋だの、貴郎《あなた》に惚れました、一生捨てないでねなんて馬鹿らしい事は真平だよ。こんな世の中でお前さん、そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男はねえ、代議士なんてやってるけれど、私に子供を生ませるとぷい[#「ぷい」に傍点]さ。私達が私生児を生めば皆そいつがモダンガールだよ、いい面の皮さ……馬鹿馬鹿しい浮世じゃないの? 今の世は真心なんてものは薬にしたくもないのよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからなのさ……」
お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急に明るくなってくる。素敵にいい人だ。
(十月×日)
ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。今日は少しかせいだ。俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風器の台
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