新版 放浪記
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)侘《わび》しき

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)氷|饅頭《まんじゅう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「穴かんむり/樔のつくり」、第4水準2−83−21]

 [#…]:返り点
 (例)楊柳斉作[#レ]花
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     第一部

[#改ページ]

     放浪記以前

 私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

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更けゆく秋の夜 旅の空の
侘《わび》しき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母
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 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物《ふともの》の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処《ところ》であった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人《たびびと》である私は、この恋いしや古里[#「恋いしや古里」に傍点]の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売《せりうり》をして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草《あまくさ》から逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。
 今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。私は母の連れ子になって、この父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。どこへ行っても木賃宿《きちんやど》ばかりの生活だった。「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ……」母は私にいつもこんなことを云っていた。そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。ざっこく[#「ざっこく」に傍点]屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京《ナンキン》町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾《おりお》と言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。
「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」
 せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭《いや》になっていたのだ。それは丁度、直方《のうがた》の炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせてはモッタイナイ[#「モッタイナイ」に傍点]年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。


 直方の町は明けても暮れても煤《すす》けて暗い空であった。砂で漉《こ》した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋[#「馬屋」に傍点]と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李《こうり》に入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。
 私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯《へこおび》に巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭《がいたん》のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋《くずや》、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖《とが》った目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢《じゅばん》きりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。
 流行歌のおいとこそうだよ[#「おいとこそうだよ」に傍点]の唄が流行《はや》っていた。

 私の三銭の小遣いは双児美人[#「双児美人」に傍点]の豆本とか、氷|饅頭《まんじゅう》のようなもので消えていた。――間もなく私は小学校へ行くかわりに、須崎町の粟《あわ》おこし工場に、日給二十三銭で通った。その頃、笊《ざる》をさげて買いに行っていた米が、たしか十八銭だったと覚えている。夜は近所の貸本屋から、腕の喜三郎[#「腕の喜三郎」に傍点]や横紙破りの福島正則[#「横紙破りの福島正則」に傍点]、不如帰[#「不如帰」に傍点]、なさぬ仲[#「なさぬ仲」に傍点]、渦巻[#「渦巻」に傍点]などを借りて読んだ。そうした物語の中から何を教ったのだろうか? メデタシ、メデタシの好きな、虫のいい空想と、ヒロイズムとセンチメンタリズムが、海綿のような私の頭をひたしてしまった。私の周囲は朝から晩まで金の話である。私の唯一の理想は、女成金になりたいと云う事だった。雨が何日も降り続いて、父の借りた荷車が雨にさらされると、朝も晩も、かぼちゃ飯で、茶碗を持つのがほんとうに淋しかった。


 この木賃宿には、通称シンケイ(神経)と呼んでいる、坑夫上りの狂人が居て、このひとはダイナマイトで飛ばされて馬鹿になった人だと宿の人が云っていた。毎朝早く、町の女達と一緒にトロッコを押しに出かけて行く気立の優しい狂人である。私はこのシンケイによく虱《しらみ》を取ってもらったものだ。彼は後で支柱夫に出世[#「出世」に傍点]したけれど、外に、島根の方から流れて来ている祭文語《さいもんかた》りの義眼《いれめ》の男や、夫婦者の坑夫が二組、まむし酒を売るテキヤ、親指のない淫売婦、サーカスよりも面白い集団であった。
「トロッコで圧されて指を取った云いよるけんど、嘘ばんた、誰ぞに切られたっとじゃろ……」
 馬屋のお上《かみ》さんは、片眼で笑いながら母にこう云っていたものだ。或る日、この指のない淫売婦と私は風呂に行った。ドロドロの苔《こけ》むした暗い風呂場だった。この女は、腹をぐるりと一巻きにして、臍《へそ》のところに朱い舌を出した蛇の文身《いれずみ》をしていた。私は九州で初めてこんな凄《すご》い女を見た。私は子供だったから、しみじみ正視してこの薄青いこわい蛇の文身を見ていたものだ。
 木賃宿に泊っている夫婦者は、たいてい自炊で、自炊でない者達も、米を買って来て炊いてもらっていた。
 ほうろく[#「ほうろく」に傍点]のように焼けた暑い直方の町角に、そのころカチュウシャの絵看板が立つようになった。異人娘が、頭から毛布をかぶって、雪の降っている停車場で、汽車の窓を叩いている図である。すると間もなく、頭の真ん中を二つに分けたカチュウシャの髪が流行って来た。

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カチュウシャ可愛や 別れの辛さ
せめて淡雪 とけぬ間に
神に願いを ララかけましょうか。
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 なつかしい唄である。この炭坑街にまたたく間に、このカチュウシャの唄は流行してしまった。ロシヤ女の純情な恋愛はよくわからなかったけれど、それでも、私は映画を見て来ると、非常にロマンチックな少女になってしまったのだ。浮かれ節(浪花節《なにわぶし》)より他《ほか》に芝居小屋に連れて行ってもらえなかった私が、たった一人で隠れてカチュウシャの映画を毎日見に行ったものであった。当分は、カチュウシャで夢見心地であった。石油を買いに行く道の、白い夾竹桃《きょうちくとう》の咲く広場で、町の子供達とカチュウシャごっこや、炭坑ごっこをして遊んだりもした。炭坑ごっこの遊びは、女の子はトロッコを押す真似をしたり、男の子は炭坑節を唄いながら土をほじくって行くしぐさである。


 そのころの私はとても元気な子供だった。
 一カ月ばかり勤めていた粟おこし工場の二十三銭也にもさよならをすると、私は父が仕入れて来た、扇子や化粧品を鼠色の風呂敷に背負って、遠賀《おんが》川を渡り隧道を越して、炭坑の社宅や坑夫小屋に行商して歩くようになった。炭坑には、色々な行商人が這入《はい》り込んでいるのだ。
「暑うしてたまらんなア。」この頃私には、こうして親しく言葉をかける相棒が二人ばかりあった。「松ちゃん」これは香月《かつき》から歩いて来る駄菓子屋で、可愛い十五の少女であったが、間もなく、青島《チンタオ》へ芸者に売られて行ってしまった。「ひろちゃん」干物屋の売り子で、十三の少年だけれど、彼の理想は、一人前の坑夫になりたい事だった。酒が呑めて、ツルハシを一寸《ちょっと》高く振りかざせば人が驚くし、町の連鎖劇は無料でみられるし、月の出た遠賀川のほとりを、私はこのひろちゃんたちの話を聞きながら帰ったものだった。――その頃よく均一と云う言葉が流行っていたけれど、私の扇子も均一の十銭で、鯉の絵や、七福神、富士山の絵が描いてある。骨はがんじょう[#「がんじょう」に傍点]な竹が七本ばかりついている。毎日平均二十本位はかたづけていった。緑色のペンキのはげた社宅の細君よりも、坑夫長屋をまわった方がはるかに扇子はさばけていった。外にラッパ長屋と云って、一棟に十家族も住んでいる鮮人長屋もあった。アンペラの畳の上には玉葱《たまねぎ》をむいたような子供達が、裸で重なりあって遊んでいた。
 烈々とした空の下には、掘りかえした土が口を開けて、雷のように遠くではトロッコの流れる音が聞えている。昼食時になると、蟻《あり》の塔のように材木を組みわたした暗い坑道口から、泡《あわ》のように湧《わ》いて出る坑夫達を待って、幼い私はあっちこっち扇子を売りに歩いた。坑夫達の汗は水ではなくて、もう黒い飴《あめ》のようであった。今、自分達が掘りかえした石炭土の上にゴロリと横になると、バクバクまるで金魚のように空気を吸ってよく眠った。まるでゴリラの群のようだった。
 そうしてこの静かな景色の中に動いているものと云えば、棟を流れて行く昔風なモッコである。昼食が終るとあっちからもこっちからもカチュウシャの唄が流れて来ている。やがて夕顔の花のようなカンテラの灯が、薄い光で地を這って行くと、けたたましい警笛《サイレン》の音だ。国を出るときゃ玉の肌……何でもない唄声ではあるけれど、もうもう[#「もうもう」に傍点]とした石炭土の山を見ていると何だか子供心にも切ないものがあった。

 扇子が売れなくなると、私は一つ一銭のアンパンを売り歩くようになった。炭坑まで小一里の道程を、よく休み休み私はアンパンをつまみ食いして行ったものだ。父はその頃、商売上の事から坑夫と喧嘩《けんか》をして頭をグルグル手拭で巻いて宿にくすぼっていた。母は多賀神社のそばでバナナの露店を開いていた。無数に駅からなだれて来る者は、坑夫の群である。一山いくらのバナナは割によく売れて行った。アンパンを売りさばいて母のそばへ籠を置くと、私はよく多賀神社へ遊びに行った。そして大勢の女や男達と一緒に、私も馬の銅像に祈願をこめた。いい事がありますように。――多賀さんの祭には、きまって雨が降る。多くの露店商人達は、駅のひさしや、多賀さんの境内を行ったり来たりして雨空を見上げていたものだった。

 十月になって、炭坑《やま》にストライキがあった。街中は、ジンと鼻をつまんだように静かになると、炭坑から来る坑夫達だけが殺気だって活気があ
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