った。ストライキ、さりとは辛いね。私はこんな唄も覚えた。炭坑のストライキは、始終の事で坑夫達はさっさと他の炭坑へ流れて行くのだそうだ。そのたびに、町の商人との取引は抹殺《まっさつ》されてしまうので、めったに坑夫達には品物を貸して帰れなかった。それでも坑夫相手の商売は、てっとり[#「てっとり」に傍点]早くてユカイ[#「ユカイ」に傍点]だと商人達は云っていた。


「あんたも、四十過ぎとんなはっとじゃけん、少しは身を入れてくれんな、仕様がなかもんなァた……」
 私は豆ランプの灯のかげで、一生懸命探偵小説のジゴマ[#「ジゴマ」に傍点]を読んでいた。裾にさしあって寝ている母が父に何時《いつ》もこうつぶやいていた。外はながい雨である。
「一軒、家ちゅうもんを、定めんとあんた、こぎゃん時に困るけんな。」
「ほんにヤカマシかな。」
 父が小声で呶鳴《どな》ると、あとは又雨の音だった。――そのころ、指の無い淫売婦だけは、いつも元気で酒を呑んでいた。
「戦争でも始まるとよかな。」
 この淫売婦の持論はいつも戦争の話だった。この世の中が、ひっくりかえるようになるといいと云った。炭坑にうんと金が流れて来るといいと云っていた。「あんたは、ほんまによか生れつきな」母にこう云われると、指の無い淫売婦は、
「小母っさんまで、そぎゃん思うとんなはると……」彼女は窓から何か投げては淋しそうに笑っていた。二十五だと云っていたが、労働者上りらしいプチプチした若さを持っていた。

 十一月の声のかかる時であった。
 黒崎からの帰り道、父と母と私は、大声で話しながら、軽い荷車を引いて、暗い遠賀川の堤防を歩いていた。
「お母《っか》さんも、お前も車へ乗れや、まだまだ遠いけに、歩くのはしんどい[#「しんどい」に傍点]ぞ……」
 母と私は、荷車の上に乗っかると、父は元気のいい声で唄いながら私達を引いて歩いた。
 秋になると、星が幾つも流れて行く。もうじき街の入口である。後の方から、「おっさんよっ!」と呼ぶ声がした。渡り歩きの坑夫が呼んでいるらしかった。父は荷車を止めて「何ぞ!」と呼応した。二人の坑夫が這いながらついて来た。二日も食わないのだと云う。逃げて来たのかと父が聞いていた。二人共鮮人であった。折尾まで行くのだから、金を貸してくれと何度も頭をさげた。父は沈黙《だま》って五十銭銀貨を二枚出すと、一人ずつに握らせてやった。堤の上を冷たい風が吹いて行く。茫々とした二人の鮮人の頭の上に星が光っていて、妙にガクガク私たちは慄《ふる》えていたが、二人共一円もらうと、私達の車の後を押して長い事沈黙って町までついて来た。
 しばらくして父は祖父が死んだので、岡山へ田地を売りに帰って行った。少し資本をこしらえて来て、唐津《からつ》物の糶売《せりう》りをしてみたい、これが唯一の目的であった。何によらず炭坑街で、てっとり[#「てっとり」に傍点]早く売れるものは、食物である。母のバナナと、私のアンパンは、雨が降りさえしなければ、二人の食べる位は売れて行った。馬屋の払いは月二円二十銭で、今は母も家を一軒借りるよりこの方が楽だと云っていた。だが、どこまで行ってもみじめすぎる私達である。秋になると、神経痛で、母は何日も商売を休むし、父は田地を売ってたった四十円の金しか持って来なかった。父はその金で、唐津焼を仕入れると、佐世保へ一人で働きに行ってしまった。
「じき二人は呼ぶけんのう……」
 こう云って、父は陽に焼けた厚司《あつし》一枚で汽車に乗って行った。私は一日も休めないアンパンの行商である。雨が降ると、直方の街中を軒並にアンパンを売って歩いた。
 このころの思い出は一生忘れることは出来ないのだ。私には、商売は一寸も苦痛ではなかった。一軒一軒歩いて行くと、五銭、二銭、三銭と云う風に、私のこしらえた財布には金がたまって行く。そして私は、自分がどんなに商売上手であるかを母に賞めてもらうのが楽しみであった。私は二カ月もアンパンを売って母と暮した。或る日、街から帰ると、美しいヒワ[#「ヒワ」に傍点]色の兵児帯を母が縫っていた。
「どぎゃんしたと?」
 私は驚異の眼をみはったものだ。四国のお父つぁんから送って来たのだと母は云っていた。私はなぜか胸が鳴っていた。間もなく、呼びに帰って来た義父と一緒に、私達三人は、直方を引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い路《みち》が暮れそめていて、私の目に悲しくうつるのであった。白帆が一ツ川上へ登っている、なつかしい景色である。汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長い事しゃべくっていた。父は赤い硝子《ガラス》玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。
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(十二月×日)

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さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
[#ここで字下げ終わり]

 雪が降っている。私はこの啄木《たくぼく》の歌を偶《ふ》っと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。便所の窓を明けると、夕方の門燈《あかり》が薄明るくついていて、むかし信州の山で見たしゃくなげの紅《あか》い花のようで、とても美しかった。

「婢《ね》やアお嬢ちゃんおんぶしておくれッ!」
 奥さんの声がしている。
 あああの百合子と云う子供は私には苦手だ。よく泣くし、先生に似ていて、神経が細くて全く火の玉を背負っているような感じである。――せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。
(バナナに鰻《うなぎ》、豚カツに蜜柑《みかん》、思いきりこんなものが食べてみたいなア。)
 気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくなってくる。豚カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。
 夕飯の支度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たりしている。秋江《しゅうこう》氏の家へ来て、今日で一週間あまりだけれど、先の目標もなさそうである。ここの先生は、日に幾度も梯子《はしご》段を上ったり降りたりしている。まるで二十日鼠のようだ。あの神経には全くやりきれない。
「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」
 私の肩を覗《のぞ》いては、先生は安心をしたようにじんじんばしょり[#「じんじんばしょり」に傍点]をして二階へ上って行く。
 私は廊下の本箱から、今日はチエホフを引っぱり出して読んだ。チエホフは心の古里だ。チエホフの吐息は、姿は、みな生きて、黄昏《たそがれ》の私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。柔かい本の手ざわり、ここの先生の小説を読んでいると、もう一度チエホフを読んでもいいのにと思った。京都のお女郎の話なんか、私には縁遠い世界だ。
 夜。
 家政婦のお菊さんが、台所で美味《おい》しそうな五目寿司を拵《こしら》えているのを見てとても嬉しくなった。
 赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時である。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなのだけれど、不思議な事に、赤ん坊は私の背中におぶさると、すぐウトウトと眠ってしまって、家の人達が珍らしがっている。
 お蔭《かげ》で本が読めること――。年を取って子供が出来ると、仕事も手につかない程心配になるのかも知れない。反感がおきる程、先生が赤ん坊にハラハラしているのを見ると、女中なんて一生するものではないと思った。
 うまごやし[#「うまごやし」に傍点]にだって、可憐《かれん》な白い花が咲くって事を、先生は知らないのかしら……。奥さんは野そだちな人だけれど、眠ったようなひとで、この家では私は一番好きなひとである。

(十二月×日)
 ひま[#「ひま」に傍点]が出るなり。
 別に行くところもない。大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に架った陸橋の上で、貰った紙包みを開いて見たら、たった二円はいっていた。二週間あまりも居て、金二円也。足の先から、冷たい血があがるような思いだった。――ブラブラ大きな風呂敷包みをさげて歩いていると、何だかザラザラした気持ちで、何もかも投げ出したくなってきた。通りすがりに蒼《あお》い瓦葺《かわらぶ》きの文化住宅の貸家があったので這入ってみる。庭が広くて、ガラス窓が十二月の風に磨いたように冷たく光っていた。
 疲れて眠たくなっていたので、休んで行きたい気持ちなり。勝手口を開けてみると、錆《さ》びた鑵詰《かんづめ》のかんから[#「かんから」に傍点]がゴロゴロ散らかっていて、座敷の畳が泥で汚れていた。昼間の空家は淋しいものだ。薄い人の影があそこにもここにもたたずんでいるようで、寒さがしみじみとこたえて来る。どこへ行こうと云うあてもないのだ。二円ではどうにもならない。はばかりから出て来ると、荒れ果てた縁側のそばへ狐のような目をした犬がじっと見ていた。
「何でもないんだ、何でもありやしないんだよ。」
 言いきかせるつもりで、私は縁側の上へきっとつったっていた。
(どうしようかなア……、どうにもならないじゃないのッ!)

 夜。
 新宿の旭町《あさひまち》の木賃宿へ泊った。石崖《いしがけ》の下の雪どけで、道が餡《あん》このようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。

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みんな嘘っぱちばかりの世界だった
甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく
百貨店《マーケット》の屋上のように寥々《りょうりょう》とした全生活を振り捨てて
私は木賃宿の蒲団に静脈を延ばしている
列車にフンサイされた死骸を
私は他人のように抱きしめてみた
真夜中に煤けた障子を明けると
こんなところにも空があって月がおどけていた。

みなさまさよなら!
私は歪《ゆが》んだサイコロになってまた逆もどり
ここは木賃宿の屋根裏です
私は堆積《たいせき》された旅愁をつかんで
飄々《ひょうひょう》と風に吹かれていた。
[#ここで字下げ終わり]

 夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。
「済みませんが……」
 そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返《いちょうがえ》しに結った女が、乱暴に私の薄い蒲団にもぐり込んで来た。すぐそのあとから、大きい足音がすると、帽子もかぶらない薄汚れた男が、細めに障子をあけて声をかけた。
「オイ! お前、おきろ!」
 やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンと頬を殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような寞々《ばくばく》とした静かさになった。女の乱して行った部屋の空気が、仲々しずまらない。
「今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は……」
 薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を嘗《な》めながら、私の枕元に立っているのだ。
「お前はあの女と知合いか?」
「いいえ、不意にはいって来たんですよ。」
 クヌウト・ハムスンだって、こんな行きがかりは持たなかっただろう――。刑事が出て行くと、私は伸々と手足をのばして枕の下に入れてある財布にさわってみた。残金は一円六十五銭也。月が風に吹かれているようで、歪んだ高い窓から色々な光の虹《にじ》が私には見えてくる。――ピエロは高いところから飛び降りる事は上手だけれど、飛び上って見せる芸当は容易じゃない、だが何とかなるだろう、食えないと云うことはないだろう……。

(十二月×日)
 朝、青梅《おうめ》街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駈け込むように這入って来て、
「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
 大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
 労働者は急にニコニコしてバンコ[#「バンコ」に傍点]へ腰をかけた。
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