きな飯丼《めしどんぶり》。葱《ねぎ》と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭玉一つの栄養食だ。労働者は天真に大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。天井の壁には、一食十銭よりと書いてあるのに、十銭玉一つきりのこの労働者は、すなおに大声で念を押しているのだ。私は涙ぐましい気持ちだった。御飯の盛りが私のより多いような気がしたけれども、あれで足りるかしらとも思う。その労働者はいたって朗かだった。私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭也を払って、のれん[#「のれん」に傍点]を出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつ[#「あいさつ」に傍点]を交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗かだと思う。だけど、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、十銭玉一ツで、失望、どんぞこ、墜落との紙一重なのではないだろうか――。

 お母さんだけでも東京へ来てくれれば、何とかどうにか働きようもあるのだけれど……沈むだけ沈んでチンボツしてしまった私は難破船のようなものだ。飛沫《しぶき》がかかるどころではない、ザンブザンブ潮水を呑んで、結局私も昨夜の淫売婦と、そう変った考えも持っていやしない。あの女は三十すぎていたかも知れない。私がもしも男だったら、あのまま一直線にあの夜の女に溺《おぼ》れてしまって、今朝はもう二人で死ぬる話でもしていたかもしれない。
 昼から荷物を宿屋にあずけて、神田の職業紹介所に行ってみる。

 どこへ行っても砂原のように寥々とした思いをするので、私は胸がつまった。
(お前さんに使ってもらうんじゃないよ。)
 おたんちん!
 ひょっとこ!
 馬鹿野郎!
 何と冷たい、コウマンチキな女達なのだろう――。
 桃色の吸取紙のようなカードを、紹介所の受付の女に渡すと、
「月給三十円位ですって……」
 受付女史はこうつぶやくと、私の顔を見て、せせら笑っているのだ。
「女中じゃいけないの……事務員なんて、女学校出がうろうろしているんだから駄目よ、女中なら沢山あってよ。」
 後から後から美しい女の群が雪崩れて来ている。まことにごもっともさまなことです。
 少しも得るところなし。
 紹介状は、墨汁会社と、ガソリン嬢と、伊太利《イタリア》大使館の女中との三つだった。私のふところには、もう九十銭あまりしかないのだ。夕方宿へ帰ると、芸人達が、植木鉢みたいに鏡の前に並んで、鼠色の白粉《おしろい》を顔へ塗りたくっている。
「昨夜は二分しか売れなかった。」
「藪睨《やぶにら》みじゃア買手がねえや!」
「ヘン、これだっていいって人があるんだから……」
「ハイ御苦労様なことですよ。」
 十四五の娘同士のはなしなり。

(十二月×日)
 こみあげてくる波のような哀しみ、まるで狂人になるような錯覚がおこる。マッチをすって、それで眉ずみをつけてみた。――午前十時。麹町《こうじまち》三年町の伊太利大使館へ行ってみた。
 笑って暮らしましょう。でも何だか顔がゆがみます。――異人の子が馬に乗って門から出てきた。門のそばにはこわれた門番の小屋みたいなものがあって、綺麗《きれい》な砂利が遠い玄関までつづいている。私のような女の来るところではないように思えた。地図のある、赤いジュウタンの広い室に通された。白と黒のコスチュウム、異人のおくさんって美しいと思う。遠くで見ているとなおさら美しい。さっき馬で出て行った男の子が鼻を鳴らしながら帰って来た。男の異人さんも出て来たけれど、大使さんではなく、書記官だとかって云う事だった。夫婦とも背が高くてアッパクを感じる。その白と黒のコスチュウムをつけた夫人にコック部屋を見せてもらった。コンクリートの箱の中には玉葱がゴロゴロしていて、七輪が二つ置いてあった。この七輪で、女中が自分の食べるのだけ煮たきをするのだと云うことだ。まるで廃屋のような女中部屋である。黒い鎧戸《よろいど》がおりていて石鹸《せっけん》のような外国の臭いがしている。
 結局ようりょう[#「ようりょう」に傍点]を得ないままで門を出てしまった。豪壮な三年町の邸町を抜けて坂を降りると、吹きあげる十二月の風に、商店の赤い旗がヒラヒラしていて心にしみた。人種が違っては人情も判りかねる、どこか他をさがしてみようかしら。電車に乗らないで、堀ばたを歩いていると、何となく故郷へ帰りたくなって来た。目当もないのに東京でまごついていたところで結局はどうにもならないと思う。電車を見ていると死ぬる事を考えるなり。
 本郷の前の家へ行ってみる。叔母さんつめたし。近松氏から郵便が来ていた。出る時に十二社《じゅうにそう》の吉井さんのところに女中が入用だから、ひょっとしたらあんたを世話してあげようと云う先生の言葉だったけれど、その手紙は薄ずみで書いた断り状だった。
 文士って薄情なのかも知れない。
 夕方新宿の街を歩いていると、何と云うこともなく男の人にすがりたくなっていた。(誰か、このいまの私を助けてくれる人はないものなのかしら……)新宿駅の陸橋に、紫色のシグナルが光ってゆれているのをじっと見ていると、涙で瞼《まぶた》がふくらんできて、私は子供のようにしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]が出てきた。
 何でも当ってくだけてみようと思う。宿屋の小母さんに正直に話をしてみた。仕事がみつかるまで、下で一緒にいていいと言ってくれた。
「あんた、青バスの車掌さんにならないかね、いいのになると七十円位這入るそうだが……」
 どこかでハタハタでも焼いているのか、とても臭いにおいが流れて来る。七十円もはいれば素敵なことだ。とにかくブラさがるところをこしらえなくてはならない……。十|燭《しょく》の電気のついた帳場の炬燵《こたつ》にあたって、お母アさんへ手紙を書く。
 ――ビョウキシテ、コマッテ、イルカラ、三円クメンシテ、オクッテクダサイ。
 この間の淫売婦が、いなりずしを頬ばりながらはいって来た。
「おとついはひどいめに会った。お前さんもだらしがないよ。」
「お父つぁん怒ってた?」
 電気の下で見ると、もう四十位の女で、乾いたような崩れた姿をしていた。
「私の方じゃあんなのを梟《ふくろう》と云って、色んな男を夜中に連れ込んで来るんだが、あんまり有りがたい客じゃあないんですよ。お父つぁん、油をしぼられてプンプン怒ってますよ。」
 人の好さそうな老けたお上さんは、茶を淹《い》れながらあの女の事を悪く云っていた。
 夜、お上さんにうどんを御馳走になる。明日はここの小父さんのくちぞえで青バスの車庫へ試験をうけに行ってみよう。暮れぢかくになって、落ちつき場所のない事は淋しいけれど、クヨクヨしていても仕様のない世の中だ。すべては自分の元気な体をたのみ[#「たのみ」に傍点]に働きましょう。電線が風ですさまじく鳴っている。木賃宿の片隅に、この小さな私は、汚れた蒲団に寝ころんで、壁に張ってある大黒さんの顔を見ながら、雲の上の御殿のような空想をしている。
(国へかえってお嫁にでも行こうかしら……)

        *

(四月×日)
 今日はメリヤス屋の安さんの案内で、地割りをしてくれるのだと云う親分のところへ酒を一升持って行く。
 道玄坂の漬物屋の路地口にある、土木請負の看板をくぐって、綺麗ではないけれど、拭きこんだ格子を開けると、いつも昼間場所割りをしてくれるお爺さんが、火鉢の傍で茶を啜《すす》っていた。
「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃあ、今に銀行《くら》が建ちましょうよ。」
 お爺さんは人のいい高笑いをして、私の持って行った一升の酒を気持ちよく受取ってくれた。
 誰も知人のない東京なので、恥かしいも糞《くそ》もあったものではない。ピンからキリまである東京だもの。裸になりついでにうんと働いてやりましょう。私はこれよりももっと辛かった菓子工場の事を思うと、こんなことなんか平気だと気持ちが晴れ晴れとしてきた。
 夜。
 私は女の万年筆屋さんと、当《あて》のない門札を書いているお爺さんの間に店を出さして貰った。蕎麦《そば》屋で借りた雨戸に、私はメリヤスの猿股《さるまた》を並べて「二十銭均一」の札をさげると、万年筆屋さんの電気に透して、ランデの死[#「ランデの死」に傍点]を読む。大きく息を吸うともう春の気配が感じられる。この風の中には、遠い遠い憶《おも》い出があるようだ。鋪道《ほどう》は灯の川だ。人の洪水だ。瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算器を売っていた。「諸君! 何万何千何百何に何千何百何十加えればいくらになる。皆判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」
 沢山の群集を相手に高飛車に出ている、こんな商売も面白いものだと思う。
 お上品な奥様が、猿股を二十分も捻《ひね》っていて、たった一ツ買って行った。お母さんが弁当を持って来てくれる。暖かになると、妙に着物の汚れが目にたってくる。母の着物も、ささくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。
「私が少しかわるから、お前は、御飯をお上り。」
 お新香に竹輪《ちくわ》の煮つけが、瀬戸の重ね鉢にはいっていた。鋪道に背中をむけて、茶も湯もない食事をしていると、万年筆屋の姉さんが、
「そこにもある、ここにもあると云う品物ではございません。お手に取って御覧下さいまし。」
 と大きい声で言っている。
 私はふっと塩っぱい涙がこぼれて来た。母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄を歌っていた。九州へ行っている義父さえこれでよくなっていたら、当分はお母さんの唄ではないが、たったかたのただろう。

(四月×日)
 水の流れのような、薄いショールを、街を歩く娘さん達がしている。一つあんなのを欲しいものだ。洋品店の四月の窓飾りは、金と銀と桜の花で目がくらむなり。

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空に拡がった桜の枝に
うっすらと血の色が染まると
ほら枝の先から花色の糸がさがって
情熱のくじびき

食えなくてボードビルへ飛び込んで
裸で踊った踊り子があったとしても
それは桜の罪ではない。

ひとすじの情
ふたすじの義理
ランマンと咲いた青空の桜に
生きとし生ける
あらゆる女の
裸の唇を
するすると奇妙な糸がたぐって行きます。

貧しい娘さん達は
夜になると
果物のように唇を
大空へ投げるのですってさ

青空を色どる桃色桜は
こうしたカレンな女の
仕方のないくちづけ[#「くちづけ」に傍点]なのですよ
そっぽをむいた唇の跡なのですよ。
[#ここで字下げ終わり]

 ショールを買う金を貯《た》めることを考えたら、仲々大変なことなので割引の映画を見に行ってしまった。フイルムは鉄路の白バラ、少しも面白くなし。途中雨が降り出したので、小屋から飛び出して店に行った。お母さんは茣蓙《ござ》をまとめていた。いつものように、二人で荷物を背負って駅へ行くと、花見帰りの金魚のようなお嬢さんや、紳士達が、夜の駅にあふれて、あっちにもこっちにも藻《も》のようにただよい仲々|賑《にぎや》かだ。二人は人を押しわけて電車へ乗った。雨が土砂《どしゃ》降りだ。いい気味だ。もっと降れ、もっと降れ、花がみんな散ってしまうといい。暗い窓に頬をよせて外を見ていると、お母さんがしょんぼりと子供のようにフラフラして立っているのが硝子窓に写っている。
 電車の中まで意地悪がそろっているものだ。
 九州からの音信なし。

(四月×日)
 雨にあたって、お母さんが風邪を引いたので一人で夜店を出しに行く。本屋にはインキの新らしい本が沢山店頭に並んでいる。何とかして買いたいものだと思う。泥濘《ぬかるみ》にて道悪し、道玄坂はアンコを流したような鋪道だ。一日休むと、雨の続いた日が困るので、我慢して店を出すことにする。色のベタベタにじんでいるような街路には、私と護謨靴《ごむぐつ》屋さんの店きりだ。女達が私の顔を見てクスクス笑って通って行く。頬紅が沢山ついているのかしら、それとも髪がおかしいのか
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