ケッコ鳴くのが
ほしんだろう……。
[#ここで字下げ終わり]

 二人はそんな唄をうたっている。
 壺井さんのとこで、青い豆御飯を貰った。

(六月×日)
 今夜は太子堂のおまつりで、家の縁側から、前の広場の相撲場がよく見えるので、皆背のびをして集まって見る。「西! 前田河ア」と云う行司の呼び声に、縁側へ爪先立っていた私たちはドッと吹き出して哄笑した。知った人の名前なんかが呼ばれるととてもおかしくて堪《たま》らない。貧乏をしていると、皆友情以上に、自分をさらけ出して一つになってしまうものとみえる。みんなはよく話をした。怪談なんかに話が飛ぶと、たい子さんも千葉の海岸で見た人魂《ひとだま》の話をした。この人は山国の生れなのか非常に美しい肌をもっている。やっぱり男に苦労をしている人なり。夜更け一時過ぎまで花弄《はなあそび》をする。

(六月×日)
 萩原さんが遊びにみえる。
 酒は呑みたし金はなしで、敷蒲団を一枚屑屋に一円五十銭で売って焼酎《しょうちゅう》を買うなり。お米が足りなかったのでうどんの玉を買ってみんなで食べた。

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平手もて
吹雪にぬれし顔を拭く
友共産を主義とせりけり。

酒呑めば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ。
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 ああ若い私達よ、いいじゃありませんか、いいじゃないか、唄を知らない人達は、啄木を高唱してうどんをつつき焼酎を呑んでいる。その夜、萩原さんを皆と一緒におくって行って、夫が帰って来ると蚊帳がないので私達は部屋を締め切って蚊取り線香をつけて寝につくと、
「オーイ起きろ起きろ!」と大勢の足音がして、麦ふみのように地ひびきが頭にひびく。
「寝たふりをするなよオ……」
「起きているんだろう。」
「起きないと火をつけるぞ!」
「オイ! 大根を抜いて来たんだよ、うまいよ、起きないかい……」
 飯田さんと萩原さんの声が入りまじって聞えている。私は笑いながら沈黙っていた。

(七月×日)
 朝、寝床の中ですばらしい新聞を読んだ。
 本野《もとの》子爵夫人が、不良少年少女の救済をされると云うので、円満な写真が大きく新聞に載っていた。ああこんな人にでもすがってみたならば、何とか、どうにか、自分の行く道が開けはしないかしら、私も少しは不良じみているし、まだ二十三だもの、私は元気を出して飛びおきると、新聞に載っている本野夫人の住所を切り抜いて麻布《あざぶ》のそのお邸へ出掛けて行ってみた。

 折目がついていても浴衣は浴衣なのだ。私は浴衣を着て、空想で胸をいっぱいふくらませて歩いている。
「パンをおつくりになる、あの林さんでいらっしゃいましょうか?」
 女中さんがそんな事を私にきいた。どういたしまして、パンを戴きに上りました林ですと心につぶやきながら、
「一寸《ちょっと》お目にかかりたいと思いまして……」と云ってみる。
「そうですか、今愛国婦人会の方へ行っていらっしゃいますけれど、すぐお帰りですから。」
 女中さんに案内をされて、六角のように突き出た窓ぎわのソファに私は腰をかけて、美しい幽雅な庭に見いっていた。青いカーテンを透かして、風までがすずやかにふくらんではいって来る。
「どう云う御用で……」
 やがてずんぐりした夫人は、蝉《せみ》のように薄い黒羽織を着て応接間にはいって来た。
「あのお先きにお風呂をお召しになりませんか……」
 女中が夫人にたずねている。私は不良少女だと云う事が厭《いや》になってきて、夫が肺病で困っていますから少し不良少年少女をお助けになるおあまりを戴きたいと云ってみた。
「新聞で何か書いたようでしたが、ほんのそう云う事業に手助けをしているきりで、お困りのようでしたら、九段の婦人会の方へでもいらっして、仕事をなさってはいかがですか……」
 私は程よく埃《ほこり》のように外に出されてしまったけれど、――彼女が眉をさかだててなぜあの様な者を上へ上げましたと、いまごろは女中を叱っているであろう事をおもい浮べて、ツバキをひっかけてやりたいような気持ちだった。ヘエー何が慈善だよ、何が公共事業だよだ。夕方になると、朝から何も食べていない二人は、暗い部屋にうずくまって当《あて》のない原稿を書いた。
「ねえ、洋食を食べない?」
「ヘエ?」
「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」
「金があるのかい?」
「うん、だって背に腹はかえられないでしょう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝までは金を取りにこないでしょう。」
 洋食をとって、初めて肉の匂いをかぎ、ずるずるした油をなめていると、めまいがしそうに嬉しくなってくる。一口位は残しておかなくちゃ変よ。腹が少し豊かになると、生きかえったように私達は私達の思想に青い芽を萌《も》やす。全く鼠も出ない有様なのだから仕方もない――。
 私は蜜柑《みかん》箱の机に凭《もた》れて童話のようなものをかき始める。外は雨の音なり。玉川の方で、絶え間なく鉄砲を打つ音がしている。深夜だと云うのに、元気のいい事だ。だが、いつまでこんな虫みたいな生活が続くのだろうか、うつむいて子供の無邪気な物語を書いていると、つい目頭が熱くなって来るのだ。
 イビツな男とニンシキフソクの女では、一生たったとて白い御飯が食えそうにもありません。

        *

(七月×日)
 胸に凍《しみ》るような侘《わび》しさだ。夕方、頭の禿《は》げた男の云う事には、「俺はこれから女郎買いに行くのだが、でもお前さんが好きになったよ、どうだい?」私は白いエプロンをくしゃくしゃに円めて、涙を口にくくんでいた。
「お母アさん! お母アさん!」
 何もかも厭になってしまって、二階の女給部屋の隅に寝ころんでいる。鼠が群をなして走っている。暗さが眼に馴れてくると、雑然と風呂敷包みが石塊のように四囲に転がっていて、寝巻や帯が、海草のように壁に乱れていた。煮えくり返るようなそうぞうしい階下の雑音の上に、おばけ[#「おばけ」に傍点]でも出て来そうに、女給部屋は淋しいのだ。ドクドクと流れ落ちる涙と、ガス[#「ガス」に傍点]のように抜けて行く悲しみの氾濫《はんらん》、何か正しい生活にありつきたいと思うなり。そうして落ちついて本を読みたいものだ。

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しゅうねく強く
家の貧苦、酒の癖、遊怠《あそび》の癖、
みなそれだ。
ああ、ああ、ああ

切りつけろそれらに
とんでのけろ、はねとばせ
私が何べん叫びよばった事か、苦しい、
血を吐くように芸術を吐き出して狂人のように踊りよろこぼう。
[#ここで字下げ終わり]

 槐多《かいた》はかくも叫びつづけている。こんなうらぶれた思いの日、チエホフよ、アルツイバアセフよ、シュニッツラア、私の心の古里を読みたいものだと思う。働くと云う事を辛いと思った事は一度もないけれど、今日こそ安息がほしいと思う。だが今はみんなお伽話《とぎばなし》のようなことだ。
 薄暗い部屋の中に、私は直哉《なおや》の「和解」を思い出していた。こんなカフエーの雑音に巻かれていると、日記をつける事さえおっくう[#「おっくう」に傍点]になって来ている。――まず雀が鳴いているところ、朗かな朝陽が長閑《のどか》に光っているところ、陽にあたって青葉の音が色が雨のように薫じているところ、槐多ではないけれど、狂人のように、一人居の住居が恋しくなりました。
 十方|空《むな》しく御座候だ。暗いので、私は只じっと眼をとじているなり。
「オイ! ゆみちゃんはどこへ行ったんだい?」
 階下でお上さんが呼んでいる。
「ゆみちゃん居るの? お上さんが呼んでてよ。」
「歯が痛いから寝てるって云って下さい。」
 八重ちゃんが乱暴に階下へ降りて行くと、漠々とした当のない痛い気持ちが、いっそ死んでしもうたなら[#「いっそ死んでしもうたなら」に傍点]と唄い出したくなっている。メフィストフェレスがそろそろ踊り出して来たぞ! 昔おえらいルナチャルスキイとなん申します方が、――生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞや? と云っている。ルナチャルスキイならずとも、生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞやである。落ちたるマグダラのマリヤよ、自己保存の能力を叩きこわしてしまうのだ。私は頭の下に両手を入れると、死ぬる空想をしていた。毒薬を呑む空想をした。「お女郎を買いに行くより、お前が好きになった。」何と人生とはくだらなく[#「くだらなく」に傍点]朗かである事だろう。どうせ故郷もない私、だが一人の母のことを考えると切なくなって来る。泥棒になってしまおうかしら、女馬賊になってしまおうかしら……。別れた男の顔が、熱い瞼《まぶた》に押して来る。
「オイ! ゆみちゃん、ひとが足りない事はよく知ってんだろう、少々位は我慢して階下へ降りて働いておくれよ。」
 お上さんが、声を尖《とが》らせて梯子《はしご》段を上って来た。ああ何もかも一切合財が煙だ砂だ泥だ。私はエプロンの紐《ひも》を締めなおすと、陽気に唄を唄いながら、海底のような階下の雑沓《ざっとう》の中へ降りて行った。

(七月×日)
 朝から雨なり。
 造ったばかりのコートを貸してやった女は、とうとう帰って来なかった。一夜の足留りと、コートを借りて、蛾《が》のように女は他の足留りへ行ってしまった。
「あんたは人がいいのよ、昔から人を見れば泥棒と思えって言葉があるじゃないの。」
 八重ちゃんが白いくるぶしを掻《か》きながら私を嘲笑《あざわら》っている。
「ヘエ! そんな言葉があったのかね。じゃ私も八重ちゃんの洋傘でも盗んで逃げて行こうかしら。」
 私がこんなことを云うと、寝ころんでいた由ちゃんが、
「世の中が泥棒ばかりだったら痛快だわ……」と云っている。由ちゃんは十九で、サガレンで生れたのだと白い肌が自慢だった。八重ちゃんが肌を抜いでいる栗色の皮膚に、窓ガラスの青い雨の影が、細かく写っている。
「人間ってつまらないわね。」
「でも、木の方がよっぽどつまらないわ。」
「火事が来たって、大水が来たって、木だったら逃げられないわよ……」
「馬鹿ね!」
「ふふふふ誰だって馬鹿じゃないの――」
 女達のおしゃべりは夏の青空のように朗かである。ああ私も鳥か何かに生れて来るとよかった。電気をつけて、みんなで阿弥陀《あみだ》を引いた。私は四銭。女達はアスパラガスのように、ドロドロと白粉《おしろい》をつけかけたまま皆だらしなく寝そべって蜜豆《みつまめ》を食べている。雨がカラリと晴れて、窓から涼しい風が吹きこんでくる。
「ゆみちゃん、あんたいい人があるんじゃない? 私そう睨《にら》んだわ。」
「あったんだけれど遠くへ行っちゃったのよ。」
「素敵ね!」
「あら、なぜ?」
「私は別れたくっても、別れてくんないんですもの。」
 八重ちゃんは空になったスプーンを嘗《な》めながら、今の男と別れたいわと云っている。どんな男のひとと一緒になってみても同じ事だろうと私が云うと、
「そんな筈ないわ、石鹸《せっけん》だって、十銭のと五十銭のじゃ随分品が違ってよ。」と云うなり。
 夜。酒を呑む。酒に溺《おぼ》れる。もらいは二円四十銭、アリガタヤ、カタジケナヤ。

(七月×日)
 心が留守になっているとつまずきが多いものだ。激しい雨の中を、私の自動車は八王子街道を走っている。
 もっと早く!
 もっと早く!
 たまに自動車に乗るといい気持ちなり。雨の町に燈火がつきそめている。
「どこへ行く?」
「どこだっていいわ、ガソリンが切れるまで走ってよ。」
 運転台の松さんの頭が少し禿げかけている。若禿げかしら。――午後からの公休日を所在なく消していると、自分で車を持っている運転手の松さんが、自動車に乗せてやろうと云ってくれる。田無《たなし》と云う処まで来ると、赤土へ自動車がこね上ってしまって、雨の降る櫟《くぬぎ》林の小道に、自動車はピタリと止ってしまった。遠くの、眉程の山裾に、灯がついているきりで、ざんざ降りの雨にまじって、地鳴りのように雷鳴がして稲妻が光りだした。雷が鳴るとせいせいしていい気持ちだけ
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