……」
 これ位白ばくれておかなければ、今夜こそどうにか爆発しそうで恐ろしかった。壁に背を凭せて、かの人はじっと私の顔を凝視《みつ》めて来た。私はこの男が好きで好きでたまらなくなりそうに思えて困ってしまう。だけど、私はもう色々なものにこりこりしているのだ。私は温《おと》なしく両手を机の上にのせて、灯の光りに眼を走らせていた。私の両の手先きが小さく、慄えている。一本の棒を二人で一生懸命に押しあっている気持ちなり。
「貴女は私を嬲《なぶ》っているんじゃないんですか?」
「どうして?」
 何と云う間の抜けた受太刀だろう。私の生々しい感傷の中へ巻き込まれていらっしゃるきりではありませんか……私は口の内につぶやきながら、このひとをこのままこさせなくするのも一寸淋しい気がしていた。ああ友達が欲しい。こうした優しさを持ったお友達が欲しいのだけれども……私は何時《いつ》か涙があふれていた。
 いっその事、ひと思いに死にたいとも思う。かの人は私を睨《にら》み殺すのかも知れない。生唾が舌の上を走った。私は自分がみじめに思えて仕方がなかった。別れた男との幾月かを送ったこの部屋の中に、色々な夢がまだ泳いでいて私を苦しくしているのだ。――引っ越さなくてはとてもたまらないと思う。私は机に伏さったまま郊外のさわやかな夏景色を頭に描いていた。雨の情熱はいっそう高まって来て、苦しくて仕方がない。「僕を愛して下さい。だまって僕を愛して下さい!」「だからだまって、私も愛しているではありませんか……」せめて手を握る事によってこの青年の胸が癒《いや》されるならば……。私はもう男に迷うことは恐ろしいのだ。貞操のない私の体だけども、まだどこかに私の一生を託す男が出てこないとも限らないもの。でもこの人は新鮮な血の匂いを持っている。厚い胸、青い眉、太陽のような眼。ああ私は激流のような激しさで泣いているのだ。

(六月×日)
 淋しく候。くだらなく候。金が欲しく候。北海道あたりの、アカシヤの香る並樹道を一人できままに歩いてみたいものなり。
「もう起きましたか……」
 珍らしく五十里さんの声が障子の外でしている。
「ええ起きていますよ。」
 日曜なので五十里さんと静栄さんと三人で久しぶりに、吉祥寺《きちじょうじ》の宮崎光男さんのアメチョコハウスに遊びに行ってみる。夕方ポーチで犬と遊んでいたら、上野山と云う洋画を描く人が遊びに来た。私はこの人と会うのは二度目だ。私がおさない頃、近松さんの家に女中にはいっていた時、この人は茫々としたむさくるしい姿で、牛の画を売りに来たことがあった。子供さんがジフテリヤで、大変侘し気な風采《ふうさい》だったのをおぼえている。靴をそろえる時、まるで河馬《かば》の口みたいに靴の底が離れていたものだった。私は小さい釘《くぎ》を持って来ると、そっと止めておいてあげた事がある。きっとこの人は気がつかなかったかも知れない。上野山さんは飄々と酒を呑みよく話している。夜、上野山氏は一人で帰って行った。

[#ここから2字下げ]
地球の廻転椅子に腰を掛けて
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片っ方飛んでしまった。

淋しいな……
オーイと呼んでも
誰も私のスリッパを取ってはくれぬ
度胸をきめて
廻転椅子から飛び降り
飛んだスリッパを取りに行こうか。

臆病な私の手はしっかり
廻転椅子にすがっている
オーイ誰でもいい
思い切り私の横面を
はりとばしてくれ
そしてはいているスリッパも飛ばしてくれ
私はゆっくり眠りたいのだ。
[#ここで字下げ終わり]

 落ちつかない寝床の中で、私はこんな詩を頭に描いた。下で三時の鳩時計が鳴っている。

        *

(六月×日)
 世界は星と人とより成る。エミイル・ヴェルハアレンの「世界」と云う詩を読んでいるとこんな事が書いてあった。何もかもあくび[#「あくび」に傍点]ばかりの世の中である。私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。人よ、攀《よ》じ難いあの山がいかに高いとても、飛躍の念さえ切ならば、恐れるなかれ不可能の、金の駿馬《しゅんめ》をせめたてよ。――実につまらない詩だけれども、才子と見えて実に巧《うま》い言葉を知っている。金の駿馬をせめたてよか……窓を横ぎって紅い風船が飛んで行く。呆然たり、呆然たり、呆然たりか……。何と住みにくい浮世でございましょう。
 故郷より手紙が来る。
 ――現金主義になって、自分の口すぎ位はこっちに心配をかけないでくれ。才と云うものに自惚《うぬぼ》れてはならない。お母さんも、大分衰えている。一度帰っておいで、お前のブラブラ主義には不賛成です。――父より五円の為替。私は五円の為替を膝《ひざ》において、おありがとうござります。私はなさけなくなって、遠い故郷へ舌を出した。

(六月×日)
 前の屍室《ししつ》には、今夜は青い灯がついている。又兵隊が一人死んだのだろう。青い窓の灯を横ぎって通夜をする兵隊の影が二ツぼんやりうつっている。
「あら! 螢《ほたる》が飛んどる。」
 井戸端で黒島|伝治《でんじ》さんの細君がぼんやり空を見上げていた。
「ほんとう?」
 寝そべっていた私も縁端に出てみたけれど、もう螢も何も見えなかった。
 夜。隣の壺井夫婦、黒島夫婦遊びに見える。
 壺井さん曰《いわ》く。
「今日はとても面白かったよ。黒島君と二人で市場へ盥《たらい》を買いに行ったら、金も払わないのに、三円いくらのつり[#「つり」に傍点]銭と盥をくれて一寸ドキッとしたぜ。」
「まあ! それはうらやましい、たしか、クヌウト・ハムスンの『飢え』と云う小説の中にも蝋燭《ろうそく》を買いに行って、五クローネルのつり銭と蝋燭をただでもらって来るところがありましたね。」
 私も夫も、壺井さんの話は一寸うらやましかった。――泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私達の長屋だろう。兵営の屍室と墓地と病院と、安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった。
「時に、明日はたけのこ飯にしないかね。」
「たけのこ盗みに行くか……」
 三人の男たちは路の向うの竹藪《たけやぶ》を背戸に持っている、床屋の二階の飯田さんをさそって、裏の丘へたけのこを盗みに出掛けて行った。女達は久しぶりに街の灯を見たかったけれども、あきらめて太子堂の縁日を歩いてみた。竹藪の小路に出した露店のカンテラの灯が噴水のように薫じていた。

(六月×日)
 美しい透きとおった空なので、丘の上の緑を見たいと云って、久し振りに貧しい私達は散歩に出る話をした。鍵《かぎ》を締めて、一足おそく出て行ってみると、どっちへ行ったものか、夫の蔭はその辺に見えなかった。焦々して陽照りのはげしい丘の路を行ったり来たりしてみたけれど随分おかしな話である。待ちぼけを食ったと怒ってしまった夫は、私の背をはげしく突き飛ばすと閉ざした家へはいってしまった。又おこっている。私は泥棒猫のように台所から部屋へはいると、夫はいきなり束子《たわし》や茶碗を私の胸に投げつけて来た。ああ、この剽軽《ひょうきん》な粗忽《そこつ》者をそんなにも貴方は憎いと云うのですか……私は井戸端に立って蒼《あお》い雲を見ていた。右へ行く路が、左へまちがっていたからと云っても、「馬鹿だねえ」と云う一言ですむではありませんか。私は自分の淋しい影を見ていると、小学生時代に、自分の影を見ては空を見ると、その影が、空にもうつっていたあの不思議な世界のあった頃を思い出してくるのだ。青くて高い空を私はいつまでも見上げていた。子供のように涙が湧《わ》きあふれて来て、私は地べたへしゃがんでしまうと、カイロの水売りのような郷愁の唄をうたいたくなった。
 ああ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなのだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。白い前垂を掛けたまま、竹藪や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、蒸汽船のような工場の音がしていた。ああ尾道《おのみち》の海! 私は海近いような錯覚をおこして、子供のように丘をかけ降りて行った。そこは交番の横の工場のモーターが唸《うな》っているきりで、がらんとした原っぱだった。三宿《みしゅく》の停留場に、しばらく私は電車に乗る人か何かのように立ってはいたけれど、お腹《なか》がすいてめがまいそうだった。
「貴女! 随分さっきから立っていらっしゃいますが、何か心配ごとでもあるのではありませんか。」
 今さきから、じろじろ私を見ていた二人の老婆が、馴々しく近よって来ると私の身体《からだ》をじろじろ眺めている。笑いながら涙をふりほどいている私を連れて、この親切なお婆さんは、ゆるゆる歩きだしながら信仰の強さで足の曲った人が歩けるようになったことだとか、悩みある人が、神の子として、元気に生活に楽しさを感じるようになったとか、色々と天理教の話をしてくれるのであった。
 川添いのその天理教の本部は、いかにも涼しそうに庭に水が打ってあって、楓《かえで》の青葉が、爽かに塀《へい》の外にふきこぼれていた。二人の婆さんは広い神前に額《ぬか》ずくと、やがて両手を拡げて、異様な踊を始めだした。
「お国はどちらでいらっしゃいますか?」
 白い着物を着た中年の神主が、私にアンパンと茶をすすめながら、私の侘しい姿を見てたずねた。
「別に国と云って定まったところはありませんけれど、原籍は鹿児島県東桜島です。」
「ホウ……随分遠いんですなあ……」
 私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを一つ摘《つま》んで食べた。一口|噛《か》むと案外固くって粉がボロボロ膝にこぼれ落ちている。――何もない。何も考える必要はない。私はつと立って神前に額ずくと、そのまま下駄をはいて表へ出てしまった。パン屑《くず》が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいい。只口に味覚があればいいのだ。――家の前へ行くと、あの男と同じように固く玄関は口をつぐんでいる。私は壺井さんの家へ行くと、ゆっくりと足を投げ出してそこへ寝かしてもらった。
「お宅に少しばかりお米はありませんか?」
 人のいい壺井さんの細君も、自分達の生活にへこたれてしまっているのか、私のそばに横になると、一握の米を茶碗に入れたのを持ってきて、生きる事が厭《いや》になってしまったわと云う話におちてしまっている。
「たい子さんとこは、信州から米が来たって云っていたから、あそこへ行って見ましょうか。」
「そりゃあ、ええなあ……」
 そばにいた伝治さんの細君は、両手を打って子供のように喜んでいる。ほんとうに素直な人だ。

(六月×日)
 久し振りに東京へ出て行った。新潮社で加藤武雄さんに会う。文章|倶楽部《クラブ》の詩の稿料を六円戴く。いつも目をつぶって通る神楽坂《かぐらざか》も、今日は素敵に楽しい街になって、店の一ツ一ツを私は愉しみに覗いて通った。

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隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう
生活の中の食うと云う事が満足でなかったら
描いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。

両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか
いつまでも人形を抱いて沈黙《だま》っている私ではない
お腹がすいても
職がなくっても
ウオオ! と叫んではならないのですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。

血をふいて悶死《もんし》したって
ビクともする大地ではないのです
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるけれど
私の知らない世間は何とまあ
ピヤノのように軽やかに美しいのでしょう。

そこで初めて
神様コンチクショウと呶鳴りたくなります。
[#ここで字下げ終わり]

 長いあいだ電車にゆられていると、私は又何の慰めもない家へ帰らなければならないのがつまらなくなってきた。詩を書く事がたった一つのよき慰めなり。夜、飯田さんとたい子さんが唄いながら遊びに見えた。

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俺んとこの
あの美しい
ケッコ
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