に腰を掛けて、憂鬱そうに身の上話をしていたが、正直な人と思った。浅草の大きなカフエーに居て、友達にいじめられて出て来たんたけれど、浅草の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいいって云ったので来たのだと云っていた。
お計さんが、「おい、ここは錦町になってるんだよ。」と云ったら、「あらそうかしら……」とつまらなそうな顔をしていた。この家では一番美しくて、一番正直で、一番面白い話を持っていた。
(十月×日)
仕事を終ってから湯にはいるとせいせいする気持ちだ。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が洗湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいつまでも風呂を楽しむ事が出来た。湯につかっていると、朝から一寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりとしてしまう。秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙《ござ》の上にゴロリと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれているのだ。――貴方一人に身も世も捨てた、私しゃ初恋しぼんだ花よ。――何だか真実《ほんとう》に可愛がってくれる人が欲しくなった。だけど、男の人は嘘つきが多いな。金を貯めて呑気な旅でもしましょう。
この秋ちゃんについては面白い話がある。
秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食組の大学生達は、マーガレットのように秋ちゃんをカンゲイした。秋ちゃんは十九で処女で大学生が好きなのだ。私は皆の後から秋ちゃんのたくみに動く眼を見ていたけれど、眼の縁の黒ずんだ、そして生活に疲れた衿首の皺《しわ》を見ていると、けっして十九の女の持つ若さではないと思える。
その来た晩に、皆で風呂にはいる時だった、秋ちゃんは侘しそうにしょんぼり廊下の隅に何時までも立っていた。
「おい! 秋ちゃん、風呂へはいって汗を流さないと体がくさってしまうよ。」
お計さんは歯ブラシを使いながら大声で呼びたてると、やがて秋ちゃんは手拭で胸を隠しながら、そっと二坪ばかりの風呂へはいって来た。
「お前さんは、赤ん坊を生んだ事があるんだろう?」お計ちゃんがそんな事を訊《き》いている。
庭は一面に真白だ!
お前忘れやしないだろうね。ルューバ? ほら、あの長い並木道が、まるで延ばした帯皮のように、何処までも真直ぐに長く続いて、月夜の晩にはキラキラ光る。
お前覚えているだろう? 忘れやしないだろう?
…………
そうだよ。この桜の園まで借金のかたに売られてしまうのだからね、どうも不思議だと云って見た処で仕方がない……。と、桜の園のガーエフの独白を、別れたあのひとはよく云っていたものだ。私は何だか塩っぽい追憶に耽《ふけ》っていて、歪《ゆが》んだガラス窓の大きい月を見ていた。お計さんが甲高い声で何か云っていた。
「ええ私ね、二ツになる男の子があるのよ。」
秋ちゃんは何のためらいもなく、乳房を開いて勢いよく湯煙をあげて風呂へはいった。
「うふ、私、処女よもおかしなものさね。私しゃお前さんが来た時から睨んでいたのよ。だがお前さんだって何か悲しい事情があって来たんだろうに、亭主はどうしたの。」
「肺が悪くて、赤ん坊と家にいるのよ。」
不幸な女が、あそこにもここにもうろうろしている。
「あら! 私も子供を持った事があるのよ。」
肥ってモデルのようにしなしなした手足を洗っていた俊ちゃんがトンキョウに叫んだ。
「私のは三月目でおろしてしまったのよ。だって癪《しゃく》にさわるったらないの。私は豊原の町中でも誰も知らない者がないほど華美な暮しをしていたのよ。私がお嫁に行った家は地主だったけど、とてもひらけていて、私にピヤノをならわせてくれたのよ。ピヤノの教師っても東京から流れて来たピヤノ弾き。そいつにすっかり欺《だま》されてしまって、私子供を孕《はら》んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと判っていたから云ってやったわ。そしたら、そいつの言い分がいいじゃないの――旦那さんの子にしときなさい――だってさ、だから私|口惜《くや》しくて、そんな奴の子供なんか産んじゃ大変だと思って辛子《からし》を茶碗一杯といて呑んだわよふふふ、どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバ[#「ツバ」に傍点]を引っかけてやるつもりよ。」
「まあ……」
「えらいね、あんたは……」
仲間らしい讃辞がしばし止《や》まなかった。お計さんは飛び上って風呂水を何度も何度も、俊ちゃんの背中にかけてやっていた。私は息づまるような切なさで感心している。弱い私、弱い私……私はツバを引っかけてやるべき裏切った男の頭を考えていた。お話にならない大馬鹿者は私だ! 人のいいって云う事が何の気安めになるだろうか――。
(十月×日)
偶《ふ》と目を覚ますと、俊ちゃんはもう支度をしていた。
「寝すぎたよ、早くしないと駄目だわよ。」
湯殿に二人の荷物を運ぶと、私はホッとしたのだ。博多帯を音のしないように締めて、髪をつくろうと、私は二人分の下駄を店の土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理場は鼠がチロチロしていて、人のいい主人の鼾《いびき》も平らだ。お計さんは子供の病気で昨夜千葉へ帰って留守だった。――私達は学生や定食の客ばかりではどうする事も出来なかった。止めたい止めたいと俊ちゃんと二人でひそひそ語りあったものの、みすみす忙がしい昼間の学生連と、少い女給の事を思うと、やっぱり弱気の二人は我慢しなければならなかったのだ。金が這入《はい》らなくて道楽にこんな仕事も出来ない私達は、逃げるより外に方法もない。朝の誰もいない広々とした食堂の中は恐ろしく深閑としていて、食堂のセメントの池には、赤い金魚が泳いでいる。部屋には灰色に汚れた空気がよどんでいた。路地口の窓を開けて、俊ちゃんは男のようにピョイと地面へ飛び降りると、湯殿の高窓から降した信玄袋を取りに行った。私は二三冊の本と化粧道具を包んだ小さな包みきりだった。
「まあこんなにあるの……」
俊ちゃんはお上りさんのような恰好で、蛇の目の傘と空色のパラソルを持ってくる。それに樽《たる》のような信玄袋を持っていて、これはまるで切実な一つの漫画のようだった。小川町の停留所で四五台の電車を待ったけれど、登校時間だったせいか来る電車はどれも学生で満員だった。往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、薄汚く見えただろう。たまりかねて、私達二人はそばやに飛び込むと初めてつっぱった足を延ばした。そば屋の出前持ちの親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなかった。ぺしゃんこに疲れ果ててしまって、水がやけに飲みたかった。
「大丈夫よ! あんな家なんか出て来た方がいいのよ。自分の意志通りに動けば私は後悔なんてしない事よ。」
「元気を出して働くわねえ。あんたは一生懸命勉強するといいわ……」
私は目を伏せていると、涙があふれて仕方がなかった。たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであったとしても、今のたよりない身には只わけもなく嬉しかった。ああ! 国へ帰りましょう。……お母さんの胸の中へ走って帰りましょう……自動車の窓から朝の健康な青空を見上げた。走って行く屋根を見ていた。鉄色にさびた街路樹の梢《こずえ》に雀の飛んでいるのを私は見ていた。
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うらぶれて異土のかたいとなろうとも
古里は遠きにありて思うもの……
[#ここで字下げ終わり]
かつてこんな詩を何かで読んで感心した事があった。
(十月×日)
秋風が吹くようになった。俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。
「寒くなるから……」と云って、八端《はったん》のドテラをかたみに置いて俊ちゃんは東京をたってしまった。私は朝から何も食べない。童話や詩を三ツ四ツ売ってみた所で白い御飯が一カ月のどへ通るわけでもなかった。お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして来て、私は私の思想にもカビ[#「カビ」に傍点]を生やしてしまうのだ。ああ私の頭にはプロレタリアもブルジュアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたいのだ。
「飯を食わせて下さい。」
眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしいただなかへ身を投げましょうか。夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が階下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって来て、遠く明るい廓《くるわ》の女達がふっと羨《うらや》ましくなってきた。私はいま飢えているのだ。沢山の本も今はもう二三冊になってしまって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの、「労働者セイリョフ」、直哉の「和解」がささくれているきりなり。
「又、料理店でも行ってかせぐかな。」
切なくあきらめてしまった私は、おきゃがりこぼしのだるまのように、変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、私は風の吹く夕べの街へ出て行った――。女給入用のビラの出ていそうなカフエーを次から次へ野良犬のように尋ねて、只食う為《た》めに、何よりもかによりも私の胃の腑《ふ》は何か固形物を欲しがっているのだ。ああどんなにしても私は食わなければならない。街中が美味《おい》しそうな食物で埋っているではないか! 明日は雨かも知れない。重たい風が飄々と吹く度に、興奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがしてくる。
*
(十月×日)
焼栗の声がなつかしい頃になった。廓を流して行く焼栗屋のにぶい声を聞いていると、妙に淋しくなってしまって、暗い部屋の中に私は一人でじっと窓を見ている。私は小さい時から、冬になりかけるとよく歯が痛んだものだ。まだ母親に甘えている時は、畳にごろごろして泣き叫び、ビタビタと梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]をして泣いている私だった。だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした侘しいカフエーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思い出してくる。
水っぽい眼を向けてお話をする神様は、歪んだ窓外の飄々としたあのお月様ばかりだ……。
「まだ痛む?」
そっと上って来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、くらく私の上におおいかぶさる。今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔《のり》の香をただよわせて、お君さんは枕元に寿司皿を置いた。そして黙って、私の目を見ていた。優しい心づかいだと思う。わけもなく、涙がにじんできて、薄い蒲団の下から財布を出すと、君ちゃんは、「馬鹿ね!」と、厚紙でも叩くような軽い痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打った。そして、蒲団の裾をジタジタとおさえて、そっと又、裏梯子を降りて行くのだ。ああなつかしい世界である。
(十月×日)
風が吹いている。
夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這《は》っている夢を見た。それにとき[#「とき」に傍点]色の腰紐が結ばれていて、妙に起るときから胸さわぎがして仕方がない。素敵に楽しい事があるような気がする。朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼《あお》くむくんだ顔は、生活に疲れ荒《す》さんで、私はああと長い溜息《ためいき》をついた。壁の中にでもはいってしまいたかった。今朝も泥のような味噌汁と残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思う。私は何も塗らないぼんやりとした自分の顔を見ていると、急に焦々《いらいら》してきて、唇に紅々《あかあか》とべにを引いてみた。――あの人はどうしているかしら、切れ掛った鎖をそっと掴《つか》もうとしたけれども、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなっている。
のれん[#「のれん」に傍点]越しにすがすがしい三和土《たたき》の上の盛塩を見ていると、女学生の群に蹴飛《けと》ばされて、さっと散っては山がずるずるとひくくなって行っている。私がこの家に来
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