、みたいなと思う。街を歩きながらうとうととした気持ちなり。平和な気配。森閑と眠りこけている遊廓のなかを通ってみる。どの家の軒にも造花の桜が咲いている。
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裏町の黄色い空に
のこぎりの目立ての音がしている
売春の町にほのめく桜 二月の桜
水族館の水に浮く金魚色の女の写真
牛太郎が蒲団を乾している
はるばると思いをめぐらした薄陽に
二階の窓々に鏡が光る。
売春はいつも女のたそがれだ
念入りな化粧がなおさら
犠牲は美しいと思いこんでいる物語
鐙《あぶみ》のない馬 汗をかく裸馬
レースのたびに白い息を吐く
ああこの乗心地
騎手は眼を細めて股《もも》で締める
不思議な顔で
のぼせかえっている見物客
遊廓で馬の見立てだ。
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雑貨屋で大学ノート二冊買う。四十銭也。小さいあみ目のある原稿用紙はみるのもぞっとしてしまう。あのひとを想い出すからだ。あのひとは小さいあみ目の中に、月が三角だと書き、星が直線だと書く。生きて血を噴くものにおめにかかりたいものだ。ふわふわと鼻をふくらませて第一に息を吸うこと。口にいっぱいうまいものを頬ばること第二。千松は厭で候。誰とでも寝るために女は生きている。今はそんな気がする。
ふっと気が変って、また牛込へ尋ねてゆく。野村さんは不在。神楽坂の通りをぶらぶら歩く。古本屋で立読み。このぐらいの事は書けると思いながら、古本屋の軒を出ると、もう寒々と心の中が凍るように淋しくなる。何も出来ないくせに、思う事だけは狂人のようだ。また本屋に立ち寄ってみる。手あたり次第にぱらぱらと頁をめくる。何となく気が軽くなる。そしてまた戸外へ出ると心細くなって来る。歩いていることがつまらなくなって来る。すべては手おくれになった手術のようで、死を待つばかりの心細さ……。
店へ戻ると、もう掃除は出来ていた。
医学生が三人で紅茶を飲んでいる。二階へあがって畳に腹這いごろごろと転ぶ。口のなかからかいこの糸のようなものを際限もなく吐き出してみたくなる。悲しくもないのに涙があふれる。
(二月×日)
雨。風呂のかえり牛込へ行く。
襟《えり》おしろいをつけているので、如何《いか》にも女給らしいと野村さんが叱る。はい、私は女給さんなのだから仕方がないでしょうと云う。女給さんがどうして悪いのよ。何でもして働かなくちゃ、他人さまは食わしてくれないのだもの……。もう、私の働いている場所へ来ないで下さいねと云うと、野村さんは灰皿を取って、私の胸へ投げつけた。眼にも口にも灰がはいる。肺の骨がピシッと折れたような気がした。扉口へ逃げると、野村さんは私の頭の毛をつかんで畳へ放り出した。私は死んだ真似をしていようかと思った。眼が吊《つ》りあがって、猫にくいつかれた鼠のような気がした。何か二人の間にはまちがい事があるのだと思いながら、男と女の引力がつながっている。腹の上を何度か足で蹴られた。もう、金なぞビタ一文も持って来るものかと思う。
千葉亀雄さんが親類だと云うのだから、あのひとに話してみようかと思ったりする。私は動けないので、羽織を足へかけて海老《えび》のように曲って眠る。
夕方になって眼が覚める。あのひとはむこうむきで机へ向いている。何か書いている。金だらいの手拭を取ると手拭がかちかちに凍っている。呆《ぼ》んやりと裸電気を見ていると、お母さんのところへ帰りたくなった。
肺の骨がどうにも痛い。灰皿は破れたまま散らかっている。
早く店へ戻りたいとも思わない。このまま朝まで眠っていたいのだ。寒さで、躯がぶるぶる震えている。風邪を引いたのか、馬鹿に頭の芯《しん》がずきずきと音をたてている。
そっと起きて髪を結いなおす。
その夜、起きられないので、財布を出して、あのひとに、カレーなんばんを二つ取って来て貰って二人で食べた。何も話がないので二人で仲よく寝てしまう。
(二月×日)
朝、まだ雨が降っている。みぞれのような雨。酒でも飲みたい日だ。寝床のなかで、いつまでもあれこれと考えている。野村さんは紅い唇をして眠っている。肺病やみの唇だ。肺病は馬の糞《ふん》を煮〆《にしめ》た汁がいいと誰かに聞いた事がある。このひとの気性の荒さは、肺病のせいなのだと思うとぞっとして来る。多摩川で一度血を吐いた事がある。一つしかない手拭を、私が熱湯で消毒したのを見て、野村さんはとても怒った事がある。
もう、これが最後で、本当にお別れだと思う。何処からか味噌汁の匂いがする。むらさきのさむるも夢のゆくえかな。誰かの句をふっと思い出した。何となく、外国へ行ってみたくなる。インドのような暑い国へ行ってみたいのだ。タゴールと云う詩人もインドのひとだそうだ。
野村さんは、通いにして、また一緒に住めばいいと云ってくれたのだけれど、私は心のなかにそんな気のない事をはっきりと自覚している。私は殴られる相手として薄馬鹿な顔をしているのは沢山だ。楽天家ぶっているのには閉口。あなたが、殴りさえしなければ戻って来たいのよと嘘を云う。
店へ戻ったのがお昼。がんもどきの煮つけと冷飯。息をもつかずのど[#「のど」に傍点]を通る。近所の薬屋で桜膏《さくらこう》を買って来てこめかみ[#「こめかみ」に傍点]へ張る。胸の骨が痛いので、胸にも桜膏をいく枚も張りつける。
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あわれこもりいのヒヤシンス
むらさきのはなびら
うす紅のべん
におう におう
尼ぼとけの肩。
うなばらにただよう屍
根株のひげ根の波よせて
におう におう
汐《しお》ざいの遠鳴り
波がしらみな北にむく。
伏せていこうはは
屍の炬燵《こたつ》
ほのかににおう
うつつ世のつかれ念仏
あくびまじりの或日の太陽。
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自由に作曲が出来たら、こんな意味をうたいたい。
(三月×日)
うららかな好晴なり。ヨシツネさんを想い出して、公休日を幸い、ひとりで浅草へ行ってみる。なつかしいこまん堂。一銭じょうきに乗ってみたくなる。石油色の隅田川、みていると、みかんの皮、木裂《こっぱ》、猫のふやけたのも流れている。河向うの大きい煙突からもくもくと煙が立っている。駒形橋のそばのホウリネス教会。あああすこはやっぱり素通りで、ヨシツネさんには逢う気もなく、どじょう屋にはいって、真黒い下足の木札を握る。籐畳《とうだたみ》に並んだ長いちゃぶ台と、木綿の薄べったい座蒲団。やながわに酒を一本つけて貰う。隣りの鳥打帽子の番頭風な男がびっくりした顔をしている。若い女が真昼に酒を飲むなぞとは妙な事でございましょうか? それにはそれなりの事情があるのでございます。久米《くめ》の平内《へいない》様は縁切りのかみさんじゃなかったかしら……。酒を飲みながらふっとそんな事を思う。鳥打帽子の男、「いい気持ちそうだね」と笑いかける。私も笑う。
ささくれた角帯に、クリップで小さい万年筆の頭がのぞいている。その男もお酒を飲んでいる。店さきにずらりと自転車が並び、だんだん客がふえて来る。まるで天井にかげろうがまっているような煙草のもうもうとした煙。少しの酒にいい気持ちになって来る。どじょう鍋になまずのみそ椀、香のものに御飯、それに酒が一本で八十銭。何が何だってとたんかの一つもきりたいようないい気持ちで戸外へ出る。広い道をふらふらと歩く。二天門の方へまわってみる。ごたごたと相変らずの人の波だ。裸の人形を売っている露店でしばらく人形を眺めてみる。やっぱりきりょうのいいのから売れてゆく。昼間のネオンサインがうららかな昼の光りに淡く光っている。鐘つき堂の所から公園のなかへぶらぶら歩く。
誰一人知った人もない散歩でございます。少々は酔い心地。まことに、なつかしい浅草の匂い。淡嶋《あわしま》さまの、小さい池の上の橋のところに出て少し休む。鳩が群れている。線香屋さんの線香の匂いがする。ああ何処を向いても他国のお方だ。埃《ほこり》っぽい風が吹いている。あらゆる音がジンタのように聞えて来る。
池の石の上に、甲羅の乾いた亀がもそもそと歩いている。いまにいいことがあるぞと云ってくれているのではないかと、にゅっと首をあげている亀の表情をじいっとあきずに眺めている。少しはねえ、いいことがあるように、私のことも考えて下さいなと亀に話しかけてみる。慾ばってはいかん。はい、承知いたしました。何が慾しい? はい、お金がどっさりほしいです。毎日心配なく御飯がたべられるほどお金がほしいです。男はいらぬか? はい、男はいりません。当分いりません。それは本当かね? はい、本当の事でございます。男はやっかいなものです。辛くて一緒にはおられません。私は何をしたら一番いいでしょう? それは知らん。あんまり薄情な事は云わないで下さい。――亀と話をしているのは面白い。一人で私はぶつくさと亀と話をしている。
足もとの小石を拾って、汚れた池へどぽんと投げる。亀の首が縮む。その縮みかたが何だかいやらしい。わあっと笑い出したくなって来る。
こんなに賑やかなところにいて、亀も私も到って孤独だ。かんのん様が何だよと呶鳴《どな》りたくなる。巨きなお堂のなかへ土足でがたがたと這入る。暗い奥に燈がいさり火のようにゆらゆらと光っている。
夕方新宿へ帰る。行くところもないので店へ戻る。二階で勝ちゃんが大きな声で浪花節《なにわぶし》を歌っている。電気もつけないで薄暗い所で歌をうたっている。あああれがけいせいけいこくと云い、金さえあれば自由になるものか、わしもやっぱり人の子じゃア……。気持ちの悪い声なり。
疲れたので、毛布を出して横になる。
ああこれでは一生このままで終ってしまう。どうにもならぬ。ぱっとした事はないのだろうか……。何かがバクハツするような事はないのでしょうかね、神様……。毛布が馬鹿に人間臭い。暗い戸外を、「別嬪《べっぴん》さん」と男がどこかの女を呼んでいる声がしている。今日は主人夫婦は子供を連れて成田さんにお参り。おかみさんのおふくろさんが留守番に来ている。コックの大さんと云う爺さんが、私達にいりめしをつくってくれている。
勝ちゃんが階下からウイスキーを盗んで来た。私製ジョニオーカア。暗がりで二人でウイスキーをビンの口から飲みあう。一丈位も躯がのびたような気がする。文明人のする事ではないでしょうけれど、まあ、この女達を哀れにおぼしめして下さい。私は酔うと鼻血の出るような勇ましい気になる。
*
(六月×日)
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肥満《ふと》った月が消えた
悪魔にさらわれて行った
帽子も脱がずにみんな空を見た。
指をなめる者
パイプを咥《くわ》えるもの
声を挙げる子供たち
暗い空に風が唸る。
咽喉笛《のどぶえ》に孤独の咳《せき》が鳴る
鍛冶屋《かじや》が火を燃やす
月は何処かへ消えて行った。
匙《さじ》のような霰《あられ》が降る
啀《いが》みあいが始まる。
賭《か》け金で月を探しに行く
何処かの煖炉《だんろ》に月が放り込まれた
人々はそう云って騒ぐ。
そうして、何時の間にか
人間どもは月も忘れて生きている。
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スチルネルの自我経。ヴォルテエルの哲学。ラブレエの恋文。みんな人生への断り状だ。生きていることが恥かしいのだ。労働は神聖なり、誰かがおだてて貧乏人にこんな美名をなすりつける。鼻もちもならぬほど、貧民を軽蔑《けいべつ》し、無学文盲をあなどりたい為《ため》に、いろんな規則ががんじがらめに製造される。貧民は生れながらの私生児のようなものに落ちこんで行く。
幸福の馬車は、いちはやくこうした徒輩の間を一目散に走り去ってゆく。みんな見送る。ただ、ぼんやりとわめき散らす。月が盗まれたような気がして来る。虚空に浮いている幸福な金貨のような月の光りは消えた。月さえも万人の所有物ではないのだ。――私は貴族は大嫌い。皮膚に弾力のない不具者だ。
今日も南天堂は酔いどれでいっぱい。辻潤《つじじゅん》の禿頭《はげあたま》に口紅がついている。浅草のオペラ館で、木村時子につけて貰った紅だと御自慢。集ま
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