るのだ。
おかあさん、ロシヤ人のトルストイは華族さんなんですよ。驚いたものだ。私は妙な気がして躯じゅうがぞおっと寒くなった。
「えらい勉強だね」
銀時計のおばさんが髪をかきつけながら笑っている。
まことに御勉強ですとも……。トルストイが華族の出だって事は始めて知った事なンだもの、吃驚《びっくり》してしまう。私はトルストイの宗教的なくさみは判りたくないけれども、トルストイの芸術は美しく私の胸をかきたてる。あなたは、蔭《かげ》ではひそかに美味《うま》いものを食っていたンでしょう? アンナ・カレニナ、復活、ああどうにもやりきれぬ巨《おお》きさ……。
しおしおとして金の星に御出勤。
別れた人なぞは杳《はる》かにごま粒ほどの思い出となり果てた。せめて三十円の金があれば、私は長いものを書いてみたいのだ。天から降って来ないものかしら……。一晩位は豚小舎のような寝かたをしてもかまいません。三十円めぐんでくれる人はないものか……。
卓子《テーブル》を拭き、椅子の脚を拭く。ああ無意味な仕事なり。水を流し、ドアのシンチュウをみがく。やりきれなくなって来る。手が紫色にはれあがって来る。泣いているディンプル・ハンド。女の子が鳩笛を吹いている。お女郎が列をなして店の前を通っている。みんな蒼《あお》い顔をして首にだけ白粉を塗った妙ないでたち。島田にかのこの房のさがったような髪かたち。身丈《みたけ》の長い羽織なので、田舎風に見える。暗い冬の荒れ模様の空の下を奇妙な列が行く。誰も何とも思わない。こうした行列を怪しむものは一人もないのだ。
今日はレースのかざりのあるエプロンを買う。女給さんのマークだ。金八十銭也。
東京の哀愁を歌うにふさわしい寒々とした日。足が冷いので風呂をやめて、椅子に坐って読書。全く寒い。新しいエプロンののりの匂いが厭《いや》になる。
夜。
四五人の職人風の男が私の番になる。
カツレツ、カキフライ、焼飯、それに十何本かの酒。げろを吐いて泣くのもおれば、怒ってからむのもいる。じいっと見ていると仲々面白い。一時間ほどして女郎屋へ出征との事だ。
ああ世の中は広いものだと思う。どんな女がこの男達のあいてになるのかと気の毒になって来る。玉の井に行かなくてよかったと思う。在所から売られて来た娘の、今日の行列のさまざまが思い出されて来る。
勝美さんはもう、相当酔っぱらって歌をうたい始めた。客は二人。二人ともインバネスを着た相当ないでたち。お信さんは時々レコードをかけながらするめをしゃぶっている。今夜は商売繁昌なので、やっと奥から火鉢が出る。
勝美さんの客は、私にも酒を差してくれた。美味しくも何ともない。五六杯あける。少しも酔わない。年をとった眼鏡の男の方が、お前は十七かと尋ねる。笑いたくもないのに笑ってみせる。ここのところが自分でも何ともいやらしい。
夕飯を八時頃食べる。いか[#「いか」に傍点]の煮つけを食べながら、あのひとはいまごろ、何を食べているのだろうかと哀れになって来る。欠点のない立派なひとにも考えられる。お互いの気まずさは別れて幾日もしないうちに消えてきれいになるものだ。惚々《ほれぼれ》とするような手紙でも書いて、ほんの少しの為替でも入れてやりたいような気がして来る。
一時のかんばん過ぎにも客があった。
勝美さんはすっかり酔っぱらって、何処《どこ》から私は来たのやら、何時《いつ》また何処へかえるやらと妙な唄をうたっている。狭い店の中は煙草の煙でもうもう。流しや花売りが何度も這入《はい》って来る。わあっと狂人のように叫びたくなって来る。勝美さんは酔って火鉢の中へ、焼飯をあけている。油のいぶる厭な匂いがする。
かえり二時半。
今夜はお爺さんはいないかわりに子供づれの夫婦者が寝ている。収入三円八十銭也。足袋がまっくろで気持ちが悪い。
豆ランプを引きよせて読書。ますます眠れない。
みんなが単純なことを書かなければならぬ。いかにして、ピータア・セミョノヴィッチが、マリイ・イワノヴナと結婚したか、それだけで充分です。そしてまた、なぜ、心理的研究、様子、珍奇などと小見出しを書くのでしょう。みんな単なる偽りです。見出しは出来るだけ簡単に、あなたの心の浮かんだままがよく、外のものはいけません。括弧やイタリックや、ハイフンも出来るだけ少く使うこと、みんな陳腐です。――なるほどね。私もそう思いますが、若い気持ちの中には、仲々そうはゆかない珍奇さに魅力を持つものです。でも、いまに何時《いつ》か私もチエホフの峠にかかりましょう。いまに……。
思いだけが渦をなして額の上を流れる。ごうごうと音をたてて流れて行く。そしてせんじつめるところは焦々《いらいら》として何も書けないと云うこと。このままでは何も出来やしない。まさか、年を取ってからもカフエーの女給さんでいようとは思わない。何とか神様にお助けを願いたいものだ。ノートを出して何か書こうと鉛筆を握ってはみるけれども何一つとして言葉が浮かんで来ない。別れたひとの事が気にかかるだけだ。
さきの事は一切夢中。あのねえ、私はこんな事考えるのよと云うような小説でも書けないものかと思う……。
田舎へ帰りたくなったとおっかさんは云う。ごもっともな事です。私だって、田舎へ行って、久しぶりに、晴々とした田舎の空気を吸いたいのだけれども、こんなしがない小銭をかせいでいてはどうにもなるものではない。
*
(二月×日)
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朝霧は船より白く
遠き涙の硝子石
酷い土中のなかの石
寒《かん》の花も凍るよと
つれなき肌の一色は
高き声して巷《ちまた》の風に
独りは歩く只歩く。
汚水の底のどろどろと
この胃袋の衰弱を
笑いも出来ぬ人ばかり
おのが思いも肩掛けに
はかなき世なりと神に問う。
人の世は灰なりとこそ
こもれる息もうたかたの
そのうたかたの浮き沈み
男こいしと唄うなり
地獄のほむら音たてて
荒く息するかたりあい。
せめてと頼むひともなく
いつかと待てど甲斐《かい》もなく
うき世の豆の弾《は》ぜかえり
はかなきは土中の硝子
吹かれて光る土中の硝子。
[#ここで字下げ終わり]
善悪|貴賤《きせん》、さまざまの音響のなかに私はひっそり閑と生きている一粒のアミーバアなり。母を田舎へ戻して二日。もう、何事もここまでで程よい生き方なりと心にきめる。死ぬのはどうしても厭! それなのにどうしても生きてゆかなければならない人間の慾。――野村さんよりハガキが来る。表記に越した。どうやら活気のある生活をとり戻した。一度来られたし。先日の手紙ありがとう。金はたしかに受取った。
やにわに、ただ心だけが走る。牛込の肴町で市電を降りて、牛込の郵便局の方へ歩く。昼夜銀行の横を曲って、泡盛《あわもり》屋の前をはいった紅殻《べんがら》塗りの小さいアパート。二階の七番と教えられて扉を叩く。何もないがらんとした部屋なり。
何処かへ出掛けるところとみえてあのひとが帽子をかぶって立っていた。私はやみくもに笑った。あのひともにやにや笑った。とてもいいところへ引越したのねと云うと、詩集を一冊出したので、これからは大変景気がよくなるだろうと云う。それにしても、部屋の中はがらんとしている。野村さんは、これから食堂へ飯を食いに行くのだが、五十銭貸してくれと云う。一緒に戸外へ出る。
泡盛屋の前で、はんてん着のお爺さんが酔ってたおれている。繩のれんの中にはひしめくような人だかり。銭湯のような繁昌ぶりだ。
飯田橋まで歩いて、松竹食堂と云うのにはいる。卓子は砂ぼこり。丼飯にしじみ汁、鯖の煮つけで、また、夫婦のより[#「より」に傍点]が戻ったような気になる。このひとといることは身のつまる事だと思いながら、私はまた陽気な気持ちになり、うんうんといい返事ばかりしてみせる。このひとといて泣く事ばかりだったと云う事はみんな忘れてしまう。
このごろは詩の稿料も幾分かよくなったよと野村さんの話なり。新潮社と云うところは詩一つに就いて六円もくれるのだそうだ。羨《うらや》ましい話だ。食堂を出て、また牛込まで歩く。郵便局のところで、野村さんは、とてもひげの濃いずんぐりした男のひとと丁寧なあいさつをした。佐々木俊郎と云うひとで、新潮社にいるひとだそうだ。ああそれで、あんなに丁寧なあいさつをしなければならなかったのかと思う。
私は心のうちでごおんと鐘の鳴るような淋しい気持ちになった。ものを書くと云うことはみじめなものだと思った。一年に一度位六円の稿料を貰っては第一食べてはゆけないではないのと云うと、あのひとは、むっとしたそぶりで、風のなかへぺっぺっとつばきを吐いた。
アパートの前でさよならと云うと、あのひとは私なぞみむきもしないでさっさと二階へ上って行った。私はどうしたらいいのか途方にくれる。朝ぎりや、二人起きたる台所。多摩川にいた頃の二人の侘《わび》しい生活を思い出して、私は下駄をにぎったまま二階へ上って行く。扉を開けると、野村さんは、帽子をかぶったまま本を読んでいる。私は、本当にこの人が好きなのかきらいなのか自分でも判らなくなっている。じいっと坐っているとカフエーに帰りたくて仕方がない。「じゃア、帰ります。またそのうち来ます」と云うと、あのひとはそばにあったナイフを私に放りつける。小さいナイフは畳に突きささった。私はああと心のなかに溜息《ためいき》が出る。まだこのひとは、この厭な癖が抜けないのだ。瀬田の家でも、私は幾度かナイフを投げつけられた。このまま立ちあがると、野村さんは私の躯を足で突き飛ばすに違いないので身動きもならない。寒々とした雨もよいの空がぼんやり眼にうつる。
誰かが扉をノックしている。私は立ちあがって、扉を開けた。見知らぬ若い男のひとが立っている。私はそのひとを救いの神のように思い、どうぞおはいり下さいと云って、そっと下駄をつかんで廊下へ出て行った。野村さんが何か云って廊下へ出て来たけれども、私は急いで表へ出て行った。風邪をひきそうに頭の痛い気持ちだった。
横寺町の狭い通りを歩きながら、私は浅草のヨシツネさんの事をふっと思い浮べた。プラトニックラブだよと云ったヨシツネさんの気持ちの方がいまの私にはありがたいのだ。
独りでいると粗暴な女になる。
夜。
酔っぱらって唄をうたっているところへ、にゅっと野村さんが這入って来た。私は客の前で唄をうたっていた唇をそっとつぼめて、黙ってしまった。私の番ではなかったけれども、あのひとに金のない事は判りきっている。胸のなかが酢っぱくなって来る。
勝美さんがほおずきを鳴らしながら酒を持って行った。私は腰から下がふわふわとして来る。そっと勝美さんを裏口へ呼んで、あのひとは私の知ってるひとで金がないのだからと云うと、勝美さんはのみこんで表へ出て行った。私はそのまま遊廓《ゆうかく》の方へ歩いて行く。畳屋の管《かん》さんに逢う。何処へ行くンだと云うから、煙草買いに行くンだと云うと、管さんは、寿司をおごろうと云って、屋台寿司に連れて行ってくれた。管さんは新内のうまいひとだ。西洋洗濯屋の二階に、お妾《めかけ》さんを置いていると云う風評だった。
ゆっくり時間をとって、帰ってみると、まだ野村さんはいた。そばへ行って話す。酒を飲み、焼飯を食って、平和な表情だった。私は、どんな犠牲もかまわないと思った。
十時頃野村さん帰る。
土のなかへめりこんで行きそうな気がした。愛情なぞと云うものはありようがないのだと自分で気づく。
(二月×日)
朝、大久保まで使いに行く。家賃をとどけに行くのだ。いくらはいっているのか知らないけれど、ふくらんだ封筒を見ると、これだけあれば一二カ月は黙って暮らせるのだと思う。大久保の家主は大きい植木屋さん。帳面に受取りの判こを貰って、お茶を一杯よばれて帰る。
新宿の通りはがらんとしている。花屋のウインドウに三色すみれや、ヒヤシンスや、薔薇《ばら》が咲き乱れている。花はいたって幸福だ。電車通りのムサシノ館はカリガリ博士。久しく活動もみないので
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