少しあの窓の下では、微笑《ほほえ》んでもいいでしょう――。

 二畳の部屋には、土釜《どがま》や茶碗や、ボール箱の米櫃《こめびつ》や行李《こうり》や、そうして小さい机が、まるで一生の私の負債のようにがんばっている。ななめにしいた蒲団の上には、天窓の朝陽がキラキラ輝いていて、埃が縞のようになって私の顔の上へ流れて来る。いったい革命とは、どこを吹いている風なのだ……中々うまい言葉を沢山知っている、日本の自由主義者よ。日本の社会主義者は、いったいどんなお伽噺《とぎばなし》を空想しているのでしょうか?
 あの生れたての、玄米パンよりもホヤホヤな赤ん坊達に、絹のむつき[#「むつき」に傍点]と、木綿のむつき[#「むつき」に傍点]と一たいどれだけの差をつけなければならないのだろう!
「あんたは、今日は工場は休みなのかい?」
 叔母さんが障子を叩きながら呶鳴《どな》っている。私は舌打ちをすると、妙に重々しく頭の下に両手を入れて、今さら重大な事を考えたけれど、涙が出るばかりだった。
 母の音信一通。
 たとえ五十銭でもいいから送ってくれ、私はリュウマチで困っている。この家にお前とお父さんが早く帰って来るのを、楽しみに待っている。お父さんの方も思わしくないと云うたよりだし、お前のくらし向きも思う程でないと聞くと生きているのが辛いのです。――たどたどしいカナ[#「カナ」に傍点]文字の手紙である。最後に上様ハハよりと書いてあるのを見ると、母を手で叩きたい程可愛くなってくる。
「どっか体でも悪いのですか。」
 この仕立屋に同じ間借りをしている、印刷工の松田さんが、遠慮なく障子を開けてはいって来た。背丈が十五六の子供のようにひくくて髪を肩まで長くして、私の一等厭なところをおし気もなく持っている男だった。天井を向いて考えていた私は、クルリと背をむけると蒲団を被ってしまった。この人は有難い程親切者である。だが会っていると、憂鬱なほど不快になって来る人だ。
「大丈夫なんですか!」
「ええ体の節々が痛いんです。」
 店の間では商売物の菜っ葉服を小父さんが縫っているらしい。ジ……と歯を噛《か》むようなミシンの音がしている。「六十円もあれば、二人で結構暮せると思うんです。貴女の冷たい心が淋しすぎる。」
 枕元に石のように坐った松田さんは、苔《こけ》のように暗い顔を伏せて私の顔の上にかぶさって来る。激しい男の息づかいを感じると、私は涙が霧のようにあふれて来た。今までこんなに、優しい言葉を掛けて私を慰めてくれた男が一人でもあっただろうか、皆な私を働かせて煙のように捨ててしまったではないか。この人と一緒になって、小さな長屋にでも住って、世帯を持とうかしらとも思う。でもあんまりそれも淋しすぎる話だ。十分も顔を合せていたら、胸がムカムカして来る松田さんだった。
「済みませんが、私は体の工合が悪いんです。ものを言うのが、何だかおっくうですの、あっちい行ってて下さい。」
「当分工場を休んで下さい。その間の事は僕がしますよ。たとえ貴女が僕と一緒になってくれなくっても、僕はいい気持ちなんです。」
 まあ何てチグハグな世の中であろうと思う――。
 夜。
 米を一升買いに出る。ついでに風呂敷をさげたまま逢初《あいぞめ》橋の夜店を歩いてみた。剪花《きりばな》屋、ロシヤパン、ドラ焼屋、魚の干物屋、野菜屋、古本屋、久々で見る散歩道だ。

(十二月×日)
 ヘエ、街はクリスマスでございますか。救世軍の慈善鍋《じぜんなべ》も飾り窓の七面鳥も、新聞も雑誌も一斉に街に氾濫《はんらん》して、ビラも広告旗も血まなこになっているようだ。
 暮だ、急行列車だ、あの窓の風があんなに動いている。能率を上げなくてはと、汚れた壁の黒板には、二十人の女工の色塗りの仕上げ高が、毎日毎日数字になって、まるで天気予報みたいに私達をおびやかすようになってきた。規定の三百五十の仕上げが不足の時は、五銭引き、十銭引きと、日給袋にぴらぴらテープのような伝票が張られて来る。
「厭んなっちゃうね……」
 女工はまるで、ササラのように腰を浮かせて御製作なのだ。同じ絵描きでも、これは又あまりにもコッケイな、ドミエの漫画のようではないか。
「まるで人間を芥《ごみ》だと思ってやがる。」
 五時の時計が鳴っても、仕事はドンドン運ばれて来るし、日給袋は中々廻りそうにもない。工場主の小さな子供達を連れて、会計の細君が、四時頃自動車で街へ出掛けて行ったのを、一番小さいお光ちゃんが便所の窓から眺めていて、女工達に報告すると、芝居だろうと云ったり、正月の着物でも買いに行ったのだろうと云ったり、手を働かせながら、女工達の間にはまちまちの論議が噴出した。

 七時半。
 朝から晩まで働いて、六十銭の労働の代償をもらってかえる。土釜を七輪に掛けて、机の上に茶碗と箸《はし》を並べると、つくづく人生とはこんなものだったのかと思った。ごたごた文句を言っている人間の横ッ面をひっぱたいてやりたいと思う。御飯の煮える間に、お母さんへの手紙の中に長い事して貯めていた桃色の五十銭札五枚を入れて封をする。たった今、何と何がなかったら楽しいだろうと空想して来ると、五円の間代が馬鹿らしくなってきた。二畳で五円である。一日働いて米が二升きれて平均六十銭だ。又前のようにカフエーに逆もどりでもしようかしらともおもい、幾度も幾度も、水をくぐ[#「くぐ」に傍点]って、私と一緒に疲れきっている壁の銘仙の着物を見ていると、全く味気なくなって来る。何も御座無く候だ。あぶないぞ! あぶないぞ! あぶない不精者故、バクレツダンを持たしたら、喜んでそこら辺へ投げつけるだろう。こんな女が一人うじうじ生きているよりも、いっそ早く、真二ツになって死んでしまいたい。熱い御飯の上に、昨夜の秋刀魚を伏兵線にして、ムシャリと頬ばると、生きている事もまんざらではない。沢庵《たくあん》を買った古新聞に、北海道にはまだ何万町歩と云う荒地があると書いてある。ああそう云う未開の地に私達の、ユウトピヤが出来たら愉快だろうと思うなり。鳩ぽっぽ鳩ぽっぽと云う唄が出来るかも知れない。皆で仲よく飛んでこいと云う唄が流行るかも知れない。――風呂屋から帰りがけに、暗い路地口で松田さんに会った。私は沈黙《だま》って通り抜けた。

(十二月×日)
「何も変な風に義理立てをしないで、松田さんが、折角貸して上げると云うのに、あなたも借りたらいいじゃないの、実さい私の家は、あんた達の間代を当にしているんですからねえ。」
 髪毛《かみのけ》の薄い小母さんの顔を見ていると、私はこのままこの家を出てしまいたい程くやしくなってくる。これが出掛けの戦争だ。急いで根津《ねづ》の通りへ出ると、松田さんが酒屋のポストの傍で、ハガキを入れながら私を待っていた。ニコニコして本当に好人物なのに、私はどうしてなのかこのひとにはムカムカして仕様がない。
「何も云わないで借りて下さい。僕はあげてもいいんですが、貴女がこだわると困るから。」
 そう云って、塵紙《ちりがみ》にこまかく包んだ金を松田さんは私の帯の間に挾《はさ》んでくれている。私は肩上げのとってない昔風な羽織を気にしながら、妙にてれくさくなってふりほどいて電車に乗ってしまった。――どこへ行く当もない。正反対の電車に乗ってしまった私は、寒い上野にしょんぼり自分の影をふんで降りた。狂人じみた口入《くちいれ》屋の高い広告燈が、難破船の信号みたように風にゆれていた。
「お望みは……」
 牛太郎《ぎゅうたろう》のような番頭にきかれて、まず私はかたずを呑んで、商品のような求人広告のビラを見上げた。
「辛い事をやるのも一生、楽な事をやるのも一生、姉さん良く考えた方がいいですよ。」
 肩掛もしていない、このみすぼらしい女に、番頭は目を細めて値ぶみを始めたのか、ジロジロ私の様子を見ている。下谷《したや》の寿司屋の女中さんの口に紹介をたのむと、一円の手数料を五十銭にまけてもらって公園に行った。今にも雪の降って来そうな空模様なのに、ベンチの浮浪人達は、朗かな鼾声《いびき》をあげて眠っている。西郷さんの銅像も浪人戦争の遺物だ。貴方《あなた》と私は同じ郷里なのですよ。鹿児島が恋しいとはお思いになりませんか。霧島山が、桜島が、城山が、熱いお茶にカルカンの甘味《おい》しい頃ですね。

 貴方も私も寒そうだ。
 貴方も私も貧乏だ。
 昼から工場に出る。生きるは辛し。

(十二月×日)
 昨夜、机の引き出しに入れてあった松田さんの心づくし。払えばいいのだ、借りておこうかしら、弱き者よ汝《なんじ》の名は貧乏なり。

[#ここから2字下げ]
家にかえる時間となるを
ただ一つ待つことにして
今日も働けり。
[#ここで字下げ終わり]

 啄木はこんなに楽しそうに家にかえる事を歌っているけれど、私は工場から帰ると棒のようにつっぱった足を二畳いっぱいに延ばして、大きなアクビをしているのだ。それがたった一つの楽しさなのだ。二寸ばかりのキュウピーを一つごまかして来て、茶碗の棚の上にのせて見る。私の描いた眼、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけてかき込む淋しい夜食です。――松田さんが、妙に大きいセキをしながら窓の下を通ったとおもうと、台所からはいって来て声をかける。
「もう御飯ですか、少し待っていらっしゃい、いま肉を買って来たんですよ。」
 松田さんも私と同じ自炊生活である。仲々しまった人らしい。石油コンロで、ジ……と肉を煮る匂いが、切なく口を濡らす。「済みませんが、この葱《ねぎ》切ってくれませんか。」昨夜、無断で人の部屋の机の引き出しを開けて、金包みを入れておいたくせに、そうして、たった十円ばかりの金を貸して、もう馴々しく、人に葱を刻ませようとしている。こんな人間に図々しくされると一番たまらない……。遠くで餅をつく勇ましい音が聞えている。私は沈黙ってポリポリ大根の塩漬を噛んでいたけれど、台所の方でも侘しそうに、コツコツ葱を刻み出しているようだった。「ああ刻んであげましょう。」沈黙っているにはしのびない悲しさで、障子を開けて、私は松田さんの庖丁《ほうちょう》を取った。
「昨夜はありがとう、五円を小母さんに払って、五円残ってますから、五円お返ししときますわ。」
 松田さんは沈黙って竹の皮から滴るように紅い肉片を取って鍋に入れていた。ふと見上げた歪んだ松田さんの顔に、小さい涙が一滴光っている。奥では弄花《はな》が始まったのか、小母さんの、いつものヒステリー声がビンビン天井をつき抜けて行く。松田さんは沈黙ったまま米を磨《と》ぎ出した。
「アラ、御飯はまだ炊かなかったんですか。」
「ええ貴女が御飯を食べていらっしたから、肉を早く上げようと思って。」
 洋食皿に分けてもらった肉が、どんな思いで私ののどを通ったか。私は色んな人の姿を思い浮べた。そしてみんなくだらなく思えた。松田さんと結婚をしてもいいと思った。夕食のあと、初めて松田さんの部屋へ遊びに行ってみる。
 松田さんは新聞をひろげてゴソゴソさせながら、お正月の餅をそろえて笊へ入れていた。あんなにも、なごやかにくずれていた気持ちが、又前よりもさらに凄《すご》くキリリッと弓をはってしまい、私はそのまま部屋へ帰ってきた。
「寿司屋もつまらないし……」
 外は嵐が吹いている。キュウピーよ、早く鳩ポッポだ。吹き荒《す》さめ、吹き荒さめ、嵐よ吹雪よ。

        *

(四月×日)
 地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえと、呶鳴ったところで私は一匹の烏猫だ。世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃっている。又いつもの淋しい朝の寝覚めなり。薄い壁に掛った、黒い洋傘《パラソル》をじっと見ていると、その洋傘が色んな形に見えて来る。今日もまたこの男は、ほがらかな桜の小道を、我々同志よなんて、若い女優と手を組んで、芝居のせりふを云いあいながら行く事であろう。私はじっと背中を向けてとなりに寝ている男の髪の毛を見ていた。ああこのまま蒲団の口が締って、出られないようにしたらどんなものだろう……。
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