このひとにピストルを突きつけたら、この男は鼠のようにキリキリ舞いをしてしまうだろう。お前は高が芝居者じゃないか。インテリゲンチャのたいこもち[#「たいこもち」に傍点]になって、我々同志よもみっともないことである。私はもうあなたにはあいそ[#「あいそ」に傍点]がつきてしまいました。あなたのその黒い鞄《かばん》には、二千円の貯金帳と、恋文が出たがって、両手を差し出していましたよ。
「俺はもうじき食えなくなる。誰かの一座にでもはいればいいけれど……俺には俺の節操があるし。」
 私は男にはとても甘い女です。
 そんな言葉を聞くと、さめざめと涙をこぼして、では街に出て働いてみましょうかと云ってみるのだ。そして私はこの四五日、働く家をみつけに出掛けては、魚の腸《はらわた》のように疲れて帰って来ていたのに……この嘘つき男メ! 私はいつもあなたが用心をして鍵《かぎ》を掛けているその鞄を、昨夜そっと覗《のぞ》いてみたのですよ。二千円の金額は、あなたが我々プロレタリアと言っているほど少くもないではありませんか。私はあんなに美しい涙を流したのが莫迦《ばか》らしくなっていた。二千円と、若い女優があれば、私だったら当分は長生きが出来る。
(ああ浮世は辛うござりまする。)
 こうして寝ているところは円満な御夫婦である。冷たい接吻はまっぴらなのよ。あなたの体臭は、七年も連れそった女房や、若い女優の匂いでいっぱいだ。あなたはそんな女の情慾を抱いて、お勤めに私の首に手を巻いている。
 ああ淫売婦にでもなった方がどんなにか気づかれがなくて、どんなにいいか知れやしない。私は飛びおきると男の枕を蹴《け》ってやった。嘘つきメ! 男は炭団《たどん》のようにコナゴナに崩れていった。ランマンと花の咲き乱れた四月の明るい空よ、地球の外には、颯々《さつさつ》として熱風が吹きこぼれて、オーイオーイと見えないよび声が四月の空に弾《はじ》けている。飛び出してお出でよッ! 誰も知らない処《ところ》で働きましょう。茫々とした霞《かすみ》の中に私は神様の手を見た。真黒い神様の腕を見た。

(四月×日)
[#ここから2字下げ]
一度はきやすめ二度は嘘
三度のよもやにひかされて……
憎らしい私の煩悩《ぼんのう》よ、私は女でございました。やっぱり切ない涙にくれまする。

鶏の生胆《いきぎも》に
花火が散って夜が来た
東西! 東西!
そろそろ男との大詰が近づいて来た。
一刀両断に切りつけた男の腸に
メダカがぴんぴん泳いでいる。

臭い臭い夜で
誰も居なけりゃ泥棒にはいりますぞ!
私は貧乏故男も逃げて行きました。

ああ真暗い頬かぶりの夜だよ。
[#ここで字下げ終わり]

 土を凝視《みつ》めて歩いていると、しみじみと侘しくなってきて、病犬のように慄《ふる》えて来る。なにくそ! こんな事じゃあいけないね。美しい街の鋪道《ほどう》を今日も私は、私を買ってくれないか、私を売ろう……と野良犬のように彷徨《ほうこう》してみた。引き止めても引き止まらない切れたがるきずな[#「きずな」に傍点]ならばこの男ともあっさり別れてしまうより仕方がない……。窓外の名も知らぬ大樹のたわわに咲きこぼれた白い花には、小さい白い蝶々が群れていて、いい匂いがこぼれて来る。夕方、お月様で光っている縁側に出て男の芝居のせりふ[#「せりふ」に傍点]を聞いていると、少女の日の思い出が、ふっと花の匂いのように横切ってきて、私も大きな声でどっかにいい男はないでしょうかとお月様に呶鳴りたくなってきた。このひとの当り芸は、かつて芸術座の須磨子のやったと云う「剃刀《かみそり》」と云う芝居だった。私は少女の頃、九州の芝居小屋で、このひとの「剃刀」と云う芝居を見た事がある。須磨子のカチュウシャもよかった。あれからもう大分時がたっている。この男も四十近い年だ。「役者には、やっぱり役者のお上《かみ》さんがいいんですよ。」一人稽古をしている灯に写った男の影を見ていると、やっぱりこのひとも可哀想だと思わずにはいられない。紫色のシェードの下に、台本をくっている男の横顔が、絞って行くように、私の目から遠くに去ってしまう。

「旅興行に出ると、俺はあいつと同じ宿をとった、あいつの鞄も持ってやったっけ……でもあいつは俺の目を盗んでは、寝巻のままよその男の宿へ忍んで行っていた。」
「俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるで護謨《ゴム》のように弾きかえって、体いっぱい力を入れて泣くのが、見ていてとてもいい気持ちだった。」
 二人で縁側に足を投げ出していると、男は灯を消して、七年も連れ添っていた別れた女の話をしている。私は圏外に置き忘れられた、たった一人の登場人物だ、茫然と夜空を見ているとこの男とも駄目だよと誰かが云っている。あまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]がどっかで哄笑《わら》っている、私は悲しくなってくると、足の裏が痒《か》ゆくなるのだ。一人でしゃべっている男のそばで、私はそっと、月に鏡をかたぶけて見た。眉を濃く引いた私の顔が渦のようにぐるぐる廻ってゆく、世界中が月夜のような明るさだったらいいだろう――。
「何だか一人でいたくなったの……もうどうなってもいいから一人で暮したい。」
 男は我にかえったように、太い息を切ると涙をふりちぎって、別れと云う言葉の持つ淋しい言葉に涙を流して私を抱こうとしている。これも他愛のないお芝居なのか、さあこれから忙しくなるぞ、私は男を二階に振り捨てると、動坂《どうざか》の町へ出て行った。誰も彼も握手をしましょう、ワンタンの屋台に首をつっこんで、まず支那酒をかたぶけて、私は味気ない男の旅愁を吐き捨てた。

(四月×日)
 街の四ツ角で、まるで他人よりも冷やかに、私も男も別れてしまった。男は市民座と云う小さい素人劇団をつくっていて、滝ノ川の稽古場に毎日通っているのだ。

 私も今日から通いでお勤めだ。男に食わしてもらう事は、泥を噛んでいるよりも辛いことです。体《てい》のいい仕事よりもと、私のさがした職業は牛屋の女中さん。「ロースあおり一丁願いますッ。」梯子《はしご》段をトントンと上って行くと、しみじみと美しい歌がうたいたくなってくる。広間に群れたどの顔も面白いフイルムのようだ。肉皿を持って、梯子段を上ったり降りたりして、私の前帯の中も、それに並行して少しずつお金でふくらんで来る。どこを貧乏風が吹くかと、部屋の中は甘味《おい》しそうな肉の煮える匂いでいっぱいだ。だけど、上ったり降りたりで、私はいっぺんにへこたれ[#「へこたれ」に傍点]てしまった。「二三日すると、すぐ馴れてしまうわ。」女中頭の髷《まげ》に結ったお杉さんが、物かげで腰を叩いている私を見て慰めてくれたりした。

 十二時になっても、この店は素晴らしい繁昌ぶりで、私は家へ帰るのに気が気ではなかった。私とお満さんをのぞいては、皆住み込みのひとなので、平気で残っていて客にたかっては色々なものをねだっている。
「たあさん、私水菓子ね……」
「あら私かもなん[#「かもなん」に傍点]よ……」
 まるで野生の集りだ、笑っては食い、笑っては食い、無限に時間がつぶれて行きそうで私は焦らずにはいられなかった。私がやっと店を出た時は、もう一時近くで、店の時計がおくれていたのか、市電はとっくになかった。神田から田端《たばた》までの路《みち》のりを思うと、私はがっかりして坐ってしまいたい程悲しかった。街の燈はまるで狐火のように一つ一つ消えてゆく。仕方なく歩き出した私の目にも段々心細くうつって来る。上野公園下まで来ると、どうにも動けない程、山下が恐ろしくて、私は棒立ちになってしまった。雨気を含んだ風が吹いていて、日本髪の両鬢《りょうびん》を鳥のように羽ばたかして、私は明滅する仁丹の広告燈にみいっていた。どんな人でもいいから、道連れになってくれる人はないかと私はぼんやり広小路の方を見ていた。
 こんなにも辛い思いをして、私はあのひとに真実をつくさなければならないのだろうか? 不意にハッピを着て自転車に乗った人が、さっと煙のように目の前を過ぎて行った。何もかも投げ出したいような気持ちで走って行きながら、「貴方は八重垣町の方へいらっしゃるんじゃあないですかッ!」と私は大きい声でたずねてみた。
「ええそうです。」
「すみませんが田端まで帰るんですけれど、貴方のお出でになるところまで道連れになって戴《いただ》けませんでしょうか?」
 今は一生懸命である。私は尾を振る犬のように走って行くと、その職人体の男にすがってみた。
「私も使いがおそくなったんですが、もしよかったら自転車にお乗んなさい。」
 もう何でもいい私はポックリの下駄を片手に、裾をはし折ってその人の自転車の後に乗せてもらった。しっかりとハッピのひとの肩に手を掛けて、この奇妙な深夜の自転車乗りの女は、不図《ふと》自分がおかしくなって涙をこぼしている。無事に帰れますようにと私は何かに祈らずにはいられなかった。
 夜目にも白く染物とかいてあるハッピの字を眺めて、吻と安心すると、私はもう元気になって、自然に笑い出したくなっている。根津の町でその職人さんに別れると、又私は飄々《ひょうひょう》と歌を唱《うた》いながら路を急いだ。品物のように冷たい男のそばへ……。

(四月×日)
 国から汐《しお》の香の高い蒲団を送って来た。お陽様に照らされている縁側の上に、送って来た蒲団を干していると、何故《なぜ》だか父様よ母様よと口に出して唱いたくなってくる。
 今晩は市民座の公演会だ。男は早くから化粧箱と着物を持って出かけてしまった。私は長いこと水を貰わない植木鉢のように、干からびた熱情で二階の窓から男のいそいそとした後姿を眺めていた。夕方|四谷《よつや》の三輪会館に行ってみると場内はもういっぱいの人で、舞台は例の「剃刀」である。男の弟は目ざとく私を見つけると目をまばたきさせて、姉さんはなぜ楽屋に行かないのかとたずねてくれる。人のいい大工をしているこの弟の方は、兄とは全く別な世界に生きているいい人だった。
 舞台は乱暴な夫婦|喧嘩《げんか》の処だった。おおあの女だ。いかにも得意らしくしゃべっているあのひとの相手女優を見ていると、私は初めて女らしい嫉妬《しっと》を感じずにはいられなかった。男はいつも私と着て寝る寝巻を着ていた。今朝二寸程背中がほころびていたけれど私はわざとなおしてはやらなかったのだ。一人よがりの男なんてまっぴらだと思う。
 私はくしゃみを何度も何度もつづけると、ぷいと帰りたくなってきて、詩人の友達二三人と、暖かい戸外へ出ていった。こんなにいい夜は、裸になって、ランニングでもしたらさぞ愉快だろうと思うなり。

(四月×日)
「僕が電報を打ったら、じき帰っておいで。」と云ってくれるけれど、このひとはまだ嘘を云ってるようだ。私はくやしいけれど十五円の金をもらうと、なつかしい停車場へ急いだ。
 汐の香のしみた私の古里へ私は帰ってゆくのだ。ああ何もかも逝《い》ってしまってくれ、私には何にも用はない。男と私は精養軒の白い食卓につくと、日本料理でささやかな別宴を張った。
「私は当分あっちで遊ぶつもりよ。」
「僕はこうして別れたって、きっと君が恋しくなるのはわかっているんだ。只どうにも仕様のない気持ちなんだよ今は、ほんとうにどうせき止めていいかわからない程、呆然とした気持ちなんだよ。」
 汽車に乗ったら私は煙草でも吸ってみようかと思った。駅の売店で、青いバット五ツ六ツも買い込むと私は汽車の窓から、ほんとうに冷たい握手をした。
「さようなら、体を大事にしてね。」
「有難う……御機嫌よう……」
 固く目をとじて、パッと瞼《まぶた》を開けてみると、せき止められていた涙が一時にあふれている。明石《あかし》行きの三等車の隅ッこに、荷物も何もない私は、足を伸び伸びと投げ出して涙の出るにまかせていた。途中で面白そうな土地があったら降りてみようかしらとも思っている。私は頭の上にぶらさがった鉄道地図を、じっと見上げて駅の名を一つ一つ読んでいた。新らしい土地へ
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