ない
肺が歌う 短い景色の歌なの。
茶色の雨の中を
私は耳をおさえて歩く
耳が痛い 痛いのよ
雨中の烏が光る
もがきながら飛ぶ
杳《はる》かな荒野の風の夢
肺が歌う 短い景色の歌なの。
私は何故歩くのだろう
烏の命数だ
烏のようにどこかで私は生れた
停るところのない夜
光って飛ぶ
自分が光るのではない
四囲の光線がわっと笑うのだ
私の肺が歌う それだけなの……。
独り住いの猫 独り住いの犬
誰もいない路《みち》の石ころ
露が消える
烏の空 光る烏
釘《くぎ》を抜くようなすべっこい光
よろめき よろめき 只光る烏
肺が歌う 肺だけが歌うだけなのよ。
[#ここで字下げ終わり]
二つの肺の袋だけが私のような気かする。郵便がもどって来たので、ああそうかと思う。
読売新聞に送った「肺が歌う」と云う詩、清水さんと云うお方が長くて載せられぬと云う手紙だ。花柳病の薬の広告はいやにでっかく出ているけれども、貧乏な女の詩は長くて新聞には載せられないのだ。
たった八頁の新聞は馬鹿な詩なぞよち[#「よち」に傍点]がないのだ。
ピアレスベッドの広告が出ている。私はこんな丈夫な、ハイカラなベッドに一度も寝たことがない。タイガー美人女給募集。白いエプロンをかけて、長い紐《ひも》を蝶々のように背中で結んで、ビールの栓抜きに鈴をつけた洒落《しゃれ》た女給さんが眼に浮ぶ。新聞を見ていると、どろんこの轍《わだち》の中へ、牛の糞《ふん》をにじりつけたような気持ちの悪さになって来る。
さて、どっこいしょ!
いやに躯《からだ》が重たいな。バナナのたたき売りが一山十銭。ずるずるにくさりかけたのを食べたせいか躯中に虫がわいたようになる。朝っぱらから、何処《どこ》かで大正琴を無茶苦茶にかきならしている。
肺が歌うなぞと云う、たわけた詩が金になるとは思わないけれども、それでも、世間には一人位はものずきな人間がありそうなものだ。
寝床をかたづけて髪結いに行く。
金鶴香水を一|瓶《びん》もつけたような、大柄な女が髪を結ってもらっていた。あんまり匂いがはげしいので、袖で鼻をおさえていたいような気がする。頭が痛くなる。奥では髪結さん一家が、そうがかりで桜の造花つくりの内職だ。眼がさめるようだ。
もうじき花見なのだ。
桃割れに結って貰う。安いかもじなので、どうにも工合が悪く、眉も眼尻も吊《つ》りあがるほどだ。二階で、急に、女の声で、「助平だねえッ」と云った。みんなびっくりして、天井をみあげる。
「また昼間っからやってるよ。どったんばったん角力《すもう》ばかりやってンですよ。――なあにね、酔っぱらって、おかみさんをいじめるのが癖なンで……」
髪結さんがびんまどに、筋槍をつきたてながらくすくす笑っている。みんなも笑った。御亭主は株屋で、細君は牛屋《ぎゅうや》の女中だそうだ。朝から酒を飲んで、寝床をたたんだ事がないと云う夫婦だそうだ。
白いたけながをかけてもらう。結い賃が三十銭、たけながが二銭、三十五銭払う。
まるで頭の上は果物籠をのっけたような感じ、十五日ぶりでさっぱりとする。
肺が歌うがつっかえされたのだから、今度は品をかえて童話を持って行く事にする。
茅町《かやちょう》から上野へ出て、須田町行きの電車に乗る。埃《ほこり》がして、まるで夕焼みたいな空。何だか生きている事がめんどうくさくなる。黒門町からピエロの赤い服を着たちんどん屋の連中が三人乗り込んで来る。車内はみんなくすくす笑い出した。若いピエロが切符を切って貰っている。青と紅のだんだら縞の繻子《しゅす》の服で、顔だけは化粧をしていないので、なおさら妙だ。
あんなかっこうをして生きてゆく人もある。日当はいくら位になるのかしら……。私は知らん顔をして窓の外を見ていたけれど、段々、むちゃくちゃになってもいいような気がしてきた。一人位、私と連れ添う男はないものかと思う。
私を好きだと云うひとは、私と同じようにみんな貧乏だ。風に吹かれる雨戸のようにふわふわしている。それっきりだ。
銀座へ出て滝山町の朝日新聞に行く。中野秀人と云うひとに逢う。花柳はるみと云う髪を剪《き》ったはいからな女のひとと暮しているひとだと風評にきいていたので、胸がどきどきした。世間のひとと云うものは、なかなかひとの貧乏な事情なぞ判ってはもらえない。詩をそのうち見ていただきますと云って戸外へ出る。
中野さんの赤いネクタイが綺麗《きれい》だった。
紹介状も何もない女の詩なんか、どこの新聞社だって迷惑なのだ。銀座通りを歩く。
広告に出ていたタイガーと云う店があった。並んで松月と云う店もある。みとれるように綺麗なひとがきどった小さい白まえだれをしてのぞいている。胸まであるエプロンはもう流行《はや》らないのかしら。
砂まじりの強い風が吹いた。
四丁目で、コック風な男が、通りすがりの人に広告マッチを一つずつくれている。私も貰った。後がえりして二つも貰った。
ものを書いて金にしようなぞと考えた事が、まるで夢みたいに遠い事に思える。表通りの暮しは、裏通りの生活とはまるきり違うのだ。十銭の牛飯も食えないなんて……。
(三月×日)
ハイネとはどんな西洋人か知らない。
甘い詩を書く。
恋の詩も書く。ドイツのお母さんの詩も書く。そして詩が売れる。生田春月と云うひとはどんなおじさんかな……。ホンヤクと云う事は飯を煮なおして、焼飯にする事かな。ハイネと生田春月はどんなカンケイなのか知らないけれど、本屋の棚にハイネが生れた。ぽつんと立っている。
私は無政府主義者だ。
こんなきゅうくつな政冶なんてまっぴらごめんだ。人間と自然がたわむれて、ひねもす生殖のいとなみ……それでよいではございませんか。猫も夜々を哀れにないて歩いている。私もあんなにして男がほしいと云って歩きたい。
箒《ほうき》で掃きすてるほど男がいる。
婆羅門《バラモン》大師の半偈《はんげ》の経とやら、はんにゃはらみとは云わないかな……。
蛆《うじ》が湧《わ》くのだ。私の躯に蛆が湧くのだ。
朝から水ばかり飲んでいる。盗人にはいる空想をする。どなたさまも戸締りに御用心。いまのところ、私は立派な無政府主義者を自任している。ひどいことをしてみせようと思っている。
夜。牛めしを食べて、ロート眼薬を買う。
(五月×日)
夜、牛込の生田|長江《ちょうこう》と云うひとをたずねる。
このひとはらい[#「らい」に傍点]病だと聞いていたけれど、そんな事はどうでもいい。詩人になりたいと云ったら、何とか筋道をつけてくれるかもしれない。
私はもう七十銭しか持っていないのだ。
蒼馬《あおうま》を見たりと云う題をつけて、詩の原稿を持ってゆく。古ぼけた浪人のいるような家だ。電燈が馬鹿にくらい。どんなおばけが出て来るかと思った。
部屋の隅っこに小さくなっていると、生田氏がすっと奥から出て来た。何の変哲もない大島の光った着物を着ている、痩《や》せた人だった。顔の皮膚がばかにてらてら光っている。
声の小さい、優しいひとであった。
何も云わないで、原稿を見ていただきたいと云ったら、いま、すぐには見られないと云う。
私は七十銭しか持っていないので、躯中がかあと熱くなる。
「どんなひとの詩を読みましたか?」
「はい、ハイネを読みました。ホイットマンも読みました」
高級な詩を読むと云う事を、云っておかないと悪いような気がした。だけど、本当はハイネもホイットマンも私のこころからは千万里も遠いひとだ。
「プウシュキンは好きです」
私はいそいで本当の事を云った。
あなたも御病気で悲惨のきわみだけれど、私も貧乏で、悲惨のきわみなのです。四百四病の病より、貧よりつらいものはないと、うちのおっかさんが口癖に云います。だから、私はころされた大杉|栄《さかえ》が好きなのです。
広い部屋。暗い床の間に切り口の白い本が少し積み重ねてある。シタンの机が一つ。暑くるしいのに障子が閉めてある。傘のない電燈が馬鹿にくらい。
遠くに離れて坐っているので、生田さんは馬鹿に細っこく見える。四十位のひとだと思う。
何と云う事もなく、生田春月と云うひとを尋ねるべきだったと思う。婆やさんみたいなひとがお茶を持って来たので、私はがぶりと飲んだ。
病気のひとをぶじょくしてはいけないと思った。
詩の原稿をあずけて帰る。
どうにかなるだろう。どうにもならないでもそれきり。
上野広小路のビールのイルミネーションが暗い空に泡《あわ》を吹いている。宝丹の広告燈もまばゆい。
おしる粉一ぱいあがったよのだみ声にさそわれて、五銭のおしる粉を食べた。夜店が賑《にぎ》やかだ。
水中花、ナフタリンの花、サスペンダー、ロシヤパン、万能大根刻み、玉子の泡立器、古本屋の赤い表紙のクロポトキン、青い表紙の人形の家。ぱらぱらと頁をめくると、松井須磨子の厚化粧の舞台姿の写真が出て来る。
福神漬屋の酒悦《しゅえつ》の前は黒山のような人だかり。インド人がバナナのたたきうりをしている。
十三屋の櫛屋《くしや》の前に、艶歌師がヴァイオリンを弾いていた。みどりもふかきはくようの……ほととぎすの歌だ。随分古めかしい歌をうたっている。
いっとき立ちどまってきく。年増《としま》のいちょうがえしの女がそばに立っていた。昔、佐世保にいた頃、私はこの歌をきいた事がある。誘われるようななつかしさを感じる。
艶歌師がうたってくれるようないい小説が書きたい。だけど、小説は長ったらしくてめんどうくさい。ルパシカを着て、紐を前で長く結んでいる艶歌師の四角い顔が、文章|倶楽部《クラブ》の写真で見た、室生犀星《むろうさいせい》と云うひとに似ている。
路地をはいってゆくと、湯がえりの階下のおばさんに逢った。おばさんは洗濯物を夜干していた。
「部屋代、何とかして下さいよ。本当に困るンですからね……」
はいはい、私だって本当に困るンですよ。じっさいのところ、私だって苦労しつづけたのですよと云いたかった。
明日は玉の井に身売りでもしようかと思う。
(五月×日)
地虫が鳴いている。
ぷちぷち音をたてて青葉が萌《も》えてゆくような気がする。夜中だ。おいなりさんを売りに来る。声が近くになり、また遠くなってゆく。狐寿司はうまいだろうな。甘辛い油揚げの中にいっぱいつまった飯、じとじと汁がたれそうなかんぴょうの帯。
階下ではばくちが始っている。
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魚の骨の骨
水流に滴《したた》る岸辺の草
魚の骨の骨
蕨色《わらびいろ》の雲間に浮ぶ灰
今日《こんち》はと河下のあいさつ
悶《もん》と云う字 女の字
悶は股《また》の中にある
嫋々《じょうじょう》と匂う股の中にある
悶と云う字よ。
魚の骨の骨
弓をひいて奉る一筆
魚の骨の骨
還《また》かえってくる情愛
愁《しゅう》と云う字 その字
天下の人々が口にする
腸《はらわた》のなかにある
愁いの海に沈む舟よ。
一切無我!
○
この街にいろいろな人が集ってくる
飢えによる堕落の人々
萎縮《いしゅく》した顔 病める肉体の渦
下層階級のはきだめ
天皇陛下は狂っておいでになるそうだ
患っているもののみの東京!
一層|怖《おそ》ろしい風が吹く
ああ、何処《どこ》から吹く風なのだ!
情事ははびこる かびが生える
美しい思想とか
善良な思想と云うものがない
おびえて暮している
みんな何かにおびえている。
隙間から見える蒼《あお》ざめたる天使
不思議な無限……
神秘なことには陛下は狂っておいでになると云う。
貧弱な行為と汎神論《はんしんろん》者の鍋《なべ》
りくぞくと集ってくる人々
何かを犯しに来る人々の群
街の大時計も狂いはじめた。
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(五月×日)
雨。
ユーゴーの惨めな人々を読む。
ナポレオンは英雄で、ワーテルローの背景をすぐ眼に浮べるほど立派なおかたと思っていたのだけれど、共和制をくつがえして、ナポレオン帝国をたてた矛盾が、変に気にかかって来る。こうした世の中で、たっ
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