何もない。何も考える必要はない。私はつと立って神前に額ずくと、そのまま下駄をはいて表へ出てしまった。パン屑《くず》が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいい。只口に味覚があればいいのだ。――家の前へ行くと、あの男と同じように固く玄関は口をつぐんでいる。私は壺井さんの家へ行くと、ゆっくりと足を投げ出してそこへ寝かしてもらった。
「お宅に少しばかりお米はありませんか?」
 人のいい壺井さんの細君も、自分達の生活にへこたれてしまっているのか、私のそばに横になると、一握の米を茶碗に入れたのを持ってきて、生きる事が厭《いや》になってしまったわと云う話におちてしまっている。
「たい子さんとこは、信州から米が来たって云っていたから、あそこへ行って見ましょうか。」
「そりゃあ、ええなあ……」
 そばにいた伝治さんの細君は、両手を打って子供のように喜んでいる。ほんとうに素直な人だ。

(六月×日)
 久し振りに東京へ出て行った。新潮社で加藤武雄さんに会う。文章|倶楽部《クラブ》の詩の稿料を六円戴く。いつも目をつぶって通る神楽坂《かぐらざか》も、今日は素敵に楽しい街になって、店の一ツ一ツを私は愉しみに
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