今は一生懸命である。私は尾を振る犬のように走って行くと、その職人体の男にすがってみた。
「私も使いがおそくなったんですが、もしよかったら自転車にお乗んなさい。」
 もう何でもいい私はポックリの下駄を片手に、裾をはし折ってその人の自転車の後に乗せてもらった。しっかりとハッピのひとの肩に手を掛けて、この奇妙な深夜の自転車乗りの女は、不図《ふと》自分がおかしくなって涙をこぼしている。無事に帰れますようにと私は何かに祈らずにはいられなかった。
 夜目にも白く染物とかいてあるハッピの字を眺めて、吻と安心すると、私はもう元気になって、自然に笑い出したくなっている。根津の町でその職人さんに別れると、又私は飄々《ひょうひょう》と歌を唱《うた》いながら路を急いだ。品物のように冷たい男のそばへ……。

(四月×日)
 国から汐《しお》の香の高い蒲団を送って来た。お陽様に照らされている縁側の上に、送って来た蒲団を干していると、何故《なぜ》だか父様よ母様よと口に出して唱いたくなってくる。
 今晩は市民座の公演会だ。男は早くから化粧箱と着物を持って出かけてしまった。私は長いこと水を貰わない植木鉢のように、干か
前へ 次へ
全531ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング