らびた熱情で二階の窓から男のいそいそとした後姿を眺めていた。夕方|四谷《よつや》の三輪会館に行ってみると場内はもういっぱいの人で、舞台は例の「剃刀」である。男の弟は目ざとく私を見つけると目をまばたきさせて、姉さんはなぜ楽屋に行かないのかとたずねてくれる。人のいい大工をしているこの弟の方は、兄とは全く別な世界に生きているいい人だった。
 舞台は乱暴な夫婦|喧嘩《げんか》の処だった。おおあの女だ。いかにも得意らしくしゃべっているあのひとの相手女優を見ていると、私は初めて女らしい嫉妬《しっと》を感じずにはいられなかった。男はいつも私と着て寝る寝巻を着ていた。今朝二寸程背中がほころびていたけれど私はわざとなおしてはやらなかったのだ。一人よがりの男なんてまっぴらだと思う。
 私はくしゃみを何度も何度もつづけると、ぷいと帰りたくなってきて、詩人の友達二三人と、暖かい戸外へ出ていった。こんなにいい夜は、裸になって、ランニングでもしたらさぞ愉快だろうと思うなり。

(四月×日)
「僕が電報を打ったら、じき帰っておいで。」と云ってくれるけれど、このひとはまだ嘘を云ってるようだ。私はくやしいけれど十五円の
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