みそり》」と云う芝居だった。私は少女の頃、九州の芝居小屋で、このひとの「剃刀」と云う芝居を見た事がある。須磨子のカチュウシャもよかった。あれからもう大分時がたっている。この男も四十近い年だ。「役者には、やっぱり役者のお上《かみ》さんがいいんですよ。」一人稽古をしている灯に写った男の影を見ていると、やっぱりこのひとも可哀想だと思わずにはいられない。紫色のシェードの下に、台本をくっている男の横顔が、絞って行くように、私の目から遠くに去ってしまう。
「旅興行に出ると、俺はあいつと同じ宿をとった、あいつの鞄も持ってやったっけ……でもあいつは俺の目を盗んでは、寝巻のままよその男の宿へ忍んで行っていた。」
「俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるで護謨《ゴム》のように弾きかえって、体いっぱい力を入れて泣くのが、見ていてとてもいい気持ちだった。」
二人で縁側に足を投げ出していると、男は灯を消して、七年も連れ添っていた別れた女の話をしている。私は圏外に置き忘れられた、たった一人の登場人物だ、茫然と夜空を見ているとこの男とも駄目だよと誰かが云っている。あまのじゃく[#「あまの
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