い憶《おも》い出があるようだ。鋪道《ほどう》は灯の川だ。人の洪水だ。瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算器を売っていた。「諸君! 何万何千何百何に何千何百何十加えればいくらになる。皆判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」
沢山の群集を相手に高飛車に出ている、こんな商売も面白いものだと思う。
お上品な奥様が、猿股を二十分も捻《ひね》っていて、たった一ツ買って行った。お母さんが弁当を持って来てくれる。暖かになると、妙に着物の汚れが目にたってくる。母の着物も、ささくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。
「私が少しかわるから、お前は、御飯をお上り。」
お新香に竹輪《ちくわ》の煮つけが、瀬戸の重ね鉢にはいっていた。鋪道に背中をむけて、茶も湯もない食事をしていると、万年筆屋の姉さんが、
「そこにもある、ここにもあると云う品物ではございません。お手に取って御覧下さいまし。」
と大きい声で言っている。
私はふっと塩っぱい涙がこぼれて来た。母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄を歌っていた。九州へ行っている義父さえこれでよくなっていたら、当分はお母
前へ
次へ
全531ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング