押した男の唇が、まだ固くくっついているようで、私は鏡を見ることがいやらしかった。
「いまのはじょうだんだよ……」
 何度顔を洗ってもこの言葉がこびりついている。

「怒った! 馬鹿だね君は……」
 ジャアジャア水を出している私を見て、降りて来た相良さんは笑って通り過ぎた。

 昼。
 黒い眼鏡の夫人と一緒に場の中へ行ってみる。高いベランダのようなところから拍子木が鳴ると、若い背ビロの男が、両手を拡げてパンパン手を叩いている。「買った! 買った!」ベランダの下には、芋をもむような人の頭、夫人は黒眼鏡をズリ上げながら、メモに何か書きつける。
 夫人を自動車のあるところまでおくると、また、小さなのし[#「のし」に傍点]袋に一円札のはいったのをもらう。何だかこんな幸運もまたズルリと抜けてゆきそうだ。帰ると、合百師《ごうひゃくし》達や小僧が丁半でアミダを引いていた。
「ねイ林さん! 私達もしない? 面白そうよ。」
 茶碗を伏せては、サイコロを振って、皆で小銭を出しあっていた。
「おい姉さん! はいんなよ……」
「…………」
「はいるといいものを見せてやるぜ。生れて初めてだわって、嬉しがる奴を見せ
前へ 次へ
全531ページ中194ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング