匂いだ。」
時ちゃんは、枕元の紅いシクラメンの鉢をそっと押しやると、簪《かんざし》も櫛《くし》も枕元へ抜いて、「さあ寝んねしましょう。」と云った。暗い部屋の中では、花の匂いだけが強く私達をなやませた。
(二月×日)
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積る淡雪積ると見れば
消えてあとなき儚《はか》なさよ
柳なよかに揺れぬれど
春は心のかわたれに……。
[#ここで字下げ終わり]
時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に白い素足がならんでいた。
「あら、もう起きたの。」
「雪が降ってるのよ。」
起きると湯もわいていて、窓外の板の上で、御飯がグツグツ白く吹きこぼれていた。
「炭はもう来たのかしら?」
「階下の小母さんに借りたのよ。」
いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、茶碗をふいていた。久し振りに猫の額程の茶ブ台の上で、幾年にもない長閑《のどか》なお茶を呑むなり。
「やまと館の人達や、当分誰にもところを知らさないでおきましょうね。」
時ちゃんはコックリをして、小さな火鉢に手をかざしている。
「こんなに雪が降っても出掛ける?」
「うん。」
「じゃあ私も時事新聞の白木さんに会っ
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