《あ》き倦《あ》きしていることが、いっぺんに吹き飛んでしまって、東京へ帰る時などは、田舎女《いなかおんな》が初めて上京して来るようなそんな気持ちになり済ましているのだ。

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一時が打った
誰もよく眠ったのだろう
五万里も先きにある雪崩《なだれ》のような寝息がきこえる
二時になっても三時になっても
私の机の上は真白いままだ

四時が打つと
炭籠《すみかご》に炭がなくなる
私は雨戸をあけて納屋《なや》へ炭を取りに行く
寒くて凍りそうだけれども
字を書いている仕事よりも
炭をつまんでいる方がはるかに愉しい
飼われた鶯《うぐいす》が、どこかで啼《な》きはじめる
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 これは、私の散文だけれども、夜明けに、こんな気持ちを味わうのはたびたびのことだ。炭籠をさげて裏へ出て行くと、寒くて震えあがってしまう。だけど軍手をはめて、がらがらと炭俵《すみだわら》をゆすぶって、炭を一つ一つとつまんでいる時は、私が女のせいか、やっぱり愉しい本業へかえったようで、楽々とした気持ちなのだ。
 夜明けになると、どんなに寒くても鶯が一番早く啼いてくれる。どの家で飼っているのか知らないけれども、屋根の上が煙ったように明るくなるとすぐ鶯が啼き、牛乳屋の車の音が浸《し》み透るようにきこえて来る。牛乳は二本取っている。母親と私がごくんごくん飲むのだ。牛乳配達や、新聞配達、郵便配達、寒い時は、気の毒になってしまう。夜明けの景色はいいけれども、徹夜をすると、私はまるで皮でもかぶっているように気色が悪い。
 朝御飯はたいてい牛乳。本当に御飯をたべるのが九時頃。御飯は女中が焚《た》き、味噌汁は私が焚く。幸せだと思う。仕事が忙がしくなって、台所へ二、三日出ないと、皆、抜けた顔をしている。私は料理がうまい。楽屋でほめては実《み》も蓋《ふた》もないが、料理はやっていて面白い。
 昼間は仕事が出来ないので困る。昼間、仕事が出来ると、近眼《ちかめ》にも大変いいのだけれども、昼間はひと[#「ひと」に傍点]がみんな起きているから、つい何もしないで遊んでしまう。忙がしくって困っても、友達が来ると遊んでしまう。友達が来てくれることは何よりもうれしい。日に十人位は色々の人が見える。疲れると勝手に横になって眠る。
 家へ来るひとは、男のひとたちが多い。大変シゲキがある。――酒は飲まない。虫歯が出来たし、胃が弱くなって、深酒《ふかざけ》をすると、翌《あく》る日は一日台なしになってしまう。それでもすらすら仕事の出来た後は、どんな無理なことも「はいはい」と承知してあげて、酒も愉しく上手に飲む。仕事の後の酒は吾《わ》れながらおいしい。酒は盃のねばる酒がきらい。食べものは何でもたべるけれどもまぐろのお刺身が困る。好きなのはこのわた[#「このわた」に傍点]で熱い御飯だけれど、このわた[#「このわた」に傍点]は高くて困る。お金がはいったら鼻血が出るほどたべてみたいと思う。からすみ[#「からすみ」に傍点]も好きだけれども、これも高い。うに[#「うに」に傍点]はそんなに好きじゃない。塩魚が好き、塩魚を見ると小説を書きたくなる。何か雰囲気があるから好きだ。巴里《パリ》には上手に干した塩魚がなかった。
 芝居も活動も子供の時からきらい。母親と女中だけは近所の活動へこまめに出かけて行く。――絵を描くことは私の仕事の二番目で、石油の中で、固くなっている筆を洗っている時は、むずかしい顔をしたことがない。小林秀雄《こぼやしひでお》、永井龍男両氏に、絵をあげる約束をしているので、その絵のことを考えていることは何とも云えない。私は静物はあまりうまくない。素人にしてはのイキ[#「イキ」に傍点]だそうだけれども、その辺がちょうど面白いところで、描いていると、美しい色をつかっている絵描きがうらやましくなって来る。
 マチス、モジリアニが好きで、色刷りを時々出して眺めている。この間は、萬鉄五郎《よろずてつごろう》氏の絵を二枚もとめた。萬さんのような仕事をしたいものだと、その絵を見るたびにシゲキさせられるのだけれども、私はなまけもので仕方がない。自分の行末《ゆくすえ》、自分の書くもの、皆々よく判っているけれども、雨か風でもきびしくあたってこないことには、このなまけものは、なかなか腰をあげそうにもないのだ。今年は何も書きたくない。私はいま世界地図を拡げて、印度《インド》へ行く事を計画している。秋頃には、欧洲へ行った時のように、気軽に船出したいものだと思っている。何度でも初旅のような気持ちで、私は随分|方々《ほうぼう》へ行った。貯っているだろうと訊くひともあるが、貯っているのは、宿屋の勘定書き位で、全くもって、その日暮らしなのである。云えば、雌|山羊《やぎ》の乳をしぼれば、他の者が篩《ふるい》をその下
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