に差し出していると云う、そんなはかない[#「はかない」に傍点]生活《くらし》なので、躯工合でも悪くなると、あれこれと考えるのだが、まあ、米の飯とお天道《てんとう》様はついてまわるだろうと思っている。月黒うして雁《かり》飛ぶこと高しで、どんなみじめな日が来ても、元々裸身ひとつ故、方法はどのようにもなるだろう。
 頃日、机に向っていると、矢折れ刀つきた落莫《らくばく》たる気持ちだけれども、それは、自分で這入りいい処をただがさがさと摸索していたに過ぎないのだ。唯一の目的は、まだ遠くにあるのだけれども、所帯を持っていると、今日は今日はで呆んやり暮らして、洗濯ごとや、台所ごとの地帯にいやに安住して眼をほそくしている。
 私は「清水の如く特殊の味なし」の仕事を念願しているのだけれども、手踊りがめだつ、嘘やつくり[#「つくり」に傍点]がめだって、何とも苦しくて仕方がない。女と云うものは力が足りないのかも知れぬ。癖の渝《かわ》らないことは勉強が足りないのだろうけれども、私は、前にも云ったとおり、こんな日向ぼっこをしているような文化生活は困ってしまうのだ。男の作家たちに拮抗《きっこう》してゆこうなどとはつゆ思わないけれども、せめて、もう一段背のびをしてみたいと思っている。――室生《むろう》さんのこの頃のお仕事の逞《たくま》しいのに愕《おどろ》いている。武田さんも随分あぶらがのっている。偉いと思う。みんな歴史を持っている人たちだけれども、よく疲れられないものと、その苦しみを考えるのだ。私は纔《わず》かに七、八年の歴史しか持っていない。それも、自ら踊りを踊る仕事で、苦味《にが》いことだらけだ。
 清水のように特殊な味のない仕事をするのはこれからだと自ら反省している。
 私には、深く行き交う友達がない。私はほとんど人を尋ねて行ったことがない。町でたれかれ[#「たれかれ」に傍点]に逢うだけのもので、人の家を訪問することはまれ[#「まれ」に傍点]だ。自分に倚《よ》り添うてくれるものは、結局自分自身なのであろう。――散歩も段々おっくうになってしまった。ひま[#「ひま」に傍点]があるとベッドに横たわって呆んやりしている。月のうち五、六ぺん、神田の古本屋、本郷の古本屋をひやかして歩く。とても愉しい散歩のひとつだ。割合、不勉強で本代はいまのところそんなにかからない。拾円もあれば我《が》まんしている。昔は、随分|飢《う》えたような生活だったので、少しばかり楽になると、私は手におえない浪費者で、何でも買ってみたくて、なりあがり者の気質を多分にそなえているのだ。なりあがりの陽気者のくせに、厭に孤独で、孤独のなかの自分にだけは徹しているので、友達がなくても、そんなに苦しくはない。女だから、女の友達をと考えるのだけれども、自分が足りないのか、向うが私を厭な奴だと思うのか、のぼせあがるようなひともない。男の友達は心に良薬、口に毒薬で、なかなかシゲキして貰える。
 詩を書くこと、絵を描くこと、いずれも好きで、自分の仕事のなかに、詩や絵の類似品を持っていることが、私の仕事の味噌だけれども、作家には、色々な波があってもいいと思う。今年は少し休息して、遠くへ行かれるものなら、ひとりでこつこつ目的もなく歩いて来たいと思っている。



底本:「林芙美子随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年2月14日第1刷発行
   2003(平成15)年3月5日第2刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:noriko saito
2004年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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