台所のある部屋《へや》の方へ疳性《かんしょう》らしく歩いて行った。真中の暗い部屋に取り残された私は、仕方なく濡《ぬ》れた畳《たたみ》に腹這《はらば》って、袖《そで》で瞼をおおい、「私だってロマンチストなのよう」と何となく声をたてて唄ってみた。

     六

 長いこと、人間が住まなかったからであろう、部屋の中は馬糞紙《ばふんし》のような、ボコボコした古い匂《にお》いがこもっていて、黒い畳の縁には薄く黴《かび》の跡《あと》があった。
「おい、隣りだけでも蕎麦を持って行っといた方が都合がいいぜ、井戸《いど》が一緒らしいよッ」
 カツンカツン鴨居《かもい》に何かぶっつけながら与一は不興気に私に呶鳴《どな》った。

 私は参拾銭の蕎麦の券を近所の蕎麦屋から一枚買って来ると、左側の一軒目の家へ引越しの挨拶《あいさつ》に出向いた。
 隣りと云っても、田舎風にポツンポツンと家の間に灌木《かんぼく》が続いているので、見たところ一軒家も同然のところである。私は何度も水を潜《くぐ》って垢《あか》の噴《ふ》き出たようなネルの単衣《ひとえ》を着て、与一のバンド用の、三尺帯をぐるぐる締めていた。
「何をする
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