ねえ……」
「隣りと云えば、今晩は蕎麦を持って行かなければいけないのだけれど、どうでしょうか」
「幾つずつ配るもンだ?」
「そうね、三つずつもやればいいンでしょう」
 引越した初めというものは、妙に淋しく何かを思い出すのだ。私は何度となくこのような記憶がある。別れた男達と引越しをしては蕎麦を配った遠い日の事、――もう窓の外は暗くなりかけている。私は錯覚《さっかく》を払《はら》いのけるように、ふっと天井《てんじょう》を見上げた。
「オヤ、電気もまだ引いてないンですよ」
「本当だ、引込線も無いじゃないか、二三日は不自由だね」
 長い間の習癖《しゅうへき》と云うものは恐ろしいものだ。私は立ち上ると、人差指で柱の真中辺を二三度強く突いて見た。すると、私自身でも思いがけなかったほど、その柱はひどくグラグラしていて天井から砂埃《すなぼこり》が二人の襟足《えりあし》に雲脂《ふけ》のように降りかかって来た。
「ねえ、これはあンた、潰《つぶ》しにしたってせいぜい弐参拾円で買える家ですよ。どう考えたって、拾七円の家賃だなんて、ひどすぎるわ、馬鹿《ばか》だと思うわ」
 与一は沈黙《だま》って、一生懸命《いっ
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