》ずいた夢でも見たのであろう、私は眼が覚《さ》めると、私はいつものように壁に射《さ》した影《かげ》を見ていた。浅黄色の美しい夜明けだ。光線がまだ窓の入口にも射していない。
 その時、私は新しげな靴の音を耳にした。「まだ五時位なのに誰だろう」そんな事を考えながら、襖《ふすま》を押《お》して庭の透けて見える硝子戸を覗《のぞ》くと、大きな赭《あか》ら顔の男が何気なく私の眼を見て笑った。背筋の上に何か冷いものが流れた気持ちであったが、私も笑ってみせた。
「小松君起きてるウ?」
「随分早いんですね、ただ今起します」
 朝の光線のせいか、何もかも新しいものをつけている紳士《しんし》が、このように早く与一を尋ねて来ると云う事は、よっぽど親しい、遠い地からの友人であろうと、私は忙がしく与一を揺り起した。

「そんな友人無いがね、小松って云ったア?」
「ええ、起きているかって笑って云っているのよ」
「変だなア」
 与一が着物を着ている間に、私は玄関の鍵《かぎ》を開けた。
 すると、どうであろう、四五人の紳士達が手に手に靴を持ったまま、一本の長い廊下を、何か声高く叫びながら、三方に散って行った。驚いて寝室に逃げこむ私の後からも、二人の紳士が立ちはだかって叫んだ。
「君が小松与一[#「与一」は底本では「与一郎」]君かね?」
 与一も面喰《めんくら》ったのだろう、脣《くちびる》を引きつらせてピクピクさせていた。
「ちょっと、署まで来てもらいたい」
「へえ、……いったい何ですウ、現行犯で立小便位なら覚えはあるンですが、原因は何んですウ」
「そんなに白っぱくれなくてもいいよ」
「君は小松与一だろう?」
「そうですよ。小松与一と云うペンキ屋で、目下上野の博覧会でもって東照宮の杉の木を日慣らし七八本は描いていますよ」
「フフン君が絵を描こうと描くまいと、そんな事はどうでもいいんだ、一応来てもらいたい」
「思想犯の方でですか?――僕は今ンところは臨時|雇《やと》いで、今日行かないと、また、外の奴《やつ》に取られッちまうんですがね」
「まあ、男らしく来て、一応いい開いたらいいだろう」
「何時間位かかるンですか? 長くかかるンじゃないンですか?」
 落ちついたのか与一は脣を弛《ゆる》めて笑い出した。
「二十九日だなんて事になると厭だから、こんなもンでもお見せしましょう」
 そういって押入れの中から、与一は召集《しょうしゅう》令状を出して見せた。
「本当に何か人違いでしょう? 僕はこの月末はこうして、三週間兵隊に行くンですがね」
 他の二ツの部屋を調べた紳士諸君も呆んやりした顔で、
「オイ、どうも人違いらしいぜ」
「そんな事はない。この男だよ、僕は確証を得ているンだ」
「そうかねえ、でもちょっとおかしいよ君、――君、この与一は雅号《がごう》ではないだろうね。本名は小松世市、こう書くンだろう」
「だから、召集令状を見たらいいでしょう」
 一枚の小さな召集令状が、あっちこっちの紳士諸君の手に渡った。
「不思議だねえ、もいちど探しなおしだ。ところで、他《ほか》に客は無いだろうね」
 枳の門の外には、白い小型の自動車が待っていた。仕入れに行く魚屋や、新聞配達等が覗いている。

「チェッ、何のために月給|貰《もら》っているンだ。おいッ! 加奈代《かなよ》、塩を撒《ま》いてやれ」
「だって、塩がないのよ」
「塩が無かったら泥《どろ》だっていいじゃないかッ、泥が無かったら、石油でもブッかけろ」
「こんなに家中無断で引掻《ひっか》きまわして、済みませんなンて云わないッ」
「云うもンか……あンなのを見ると、食えないで焦々《いらいら》しているところだ、赤くなりたくもなるさ」
「小さい頃、私の義父《とう》さんも、路傍に店を出して、よく巡査《じゅんさ》にビンタ殴られていたけれど――全く、これより以上私達にどうしろって云うのかしら?」

     十

 上野の博覧会の仕事もあと二三日で終ると云う夕方、与一は頭中を繃帯《ほうたい》で巻いて帰って来た。
「八方|塞《ふさが》りかね。オイー! 暑いせいか焦々して喧嘩《けんか》しちまったよ」
「誰とさア」
「なまじっか油絵の具を捏《こ》ねた者は、変な気障《きざ》さがあって困るって、ペンキ屋同士が云ってるだろう、だから、僕の事なンですか、僕の事なら僕へはっきり[#「はっきり」に傍点]云って下さいって、云ってやったンだ。するとね、ああちんぴら絵描きは骨が折れるって云ったから、何をお高く止ってるンだ馬鹿|野郎《やろう》、ピンハネをしてやがってと呶鳴ってやったら、いきなりコップを額にぶっつけたンだ」
「マア、まるで土工みたいね、痛い?」
「硝子がはいったけど大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
 バンド代りに締めた三尺帯の中から、与一は十三日分の給料を出していっ
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