清貧の書
林芙美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)云《い》う
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)家族|達《たち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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一
私はもう長い間、一人で住みたいと云《い》う事を願って暮《くら》した。古里も、古里の家族|達《たち》の事も忘れ果てて今なお私の戸籍《こせき》の上は、真白いままで遠い肉親の記憶《きおく》の中から薄《うす》れかけようとしている。
ただひとり母だけは、跌《つま》ずき勝ちな私に度々手紙をくれて叱《しか》って云う事は、――
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おまえは、おかあさんでも、おとこうん[#「おとこうん」に傍点]がわるうて、くろうしていると、ふてくされてみえるが、よう、むねにてをあててかんがえてみい。しっかりものじゃ、ゆうて、おまえを、しんようしていても、そうそう、おとこさん[#「おとこさん」に傍点]のなまえがちごうては、わしもくるしいけに、さっち五円おくってくれとあったが、ばばさがしんで、そうれん[#「そうれん」に傍点]もだされんのを、しってであろう。あんなひとじゃけに、おとうさんも、ほんのこて、しんぼうしなはって、このごろは、めしのうえに、しょおゆうかけた、べんとうだけもって、かいへいだんに、せきたんはこびにいっておんなはる、五円なおくれんけん、二円ばいれとく、しんぼうしなはい。てがみかくのも、いちんちがかりで、あたまがいとうなる。かえろうごとあったら、二人でもどんなさい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]はは。
ひなたくさい母の手紙を取り出しては、泪《なみだ》をじくじくこぼし、「誰《だれ》がかえってやるもンか、田舎《いなか》へ帰っても飯が満足に食えんのに……今に見い」私は母の手紙の中の、義父が醤油《しょうゆ》をかけた弁当を持って毎日海兵団へ働きに行っていると云う事が、一番胸にこたえた。――もう東京に来て四年にもなる。さして遠い過去ではない。
私は、その四年の間に三人の男の妻となった。いまの、その三人目の男は、私の気質から云えばひどく正反対で、平凡《へいぼん》で誇張《こちょう》のない男であった。たとえて云えば、「また引越《ひっこ》しをされたようですが、今度は、淋《さび》しいところらしいですね」このように、誰かが私達に聞いてくれるとすると、私はいつものように楽《たの》し気《げ》に「ええこんなに、そう、何千株と躑躅《つつじ》の植っているお邸《やしき》のようなところです」と、私は両手を拡《ひろ》げて、何千株の躑躅がいかに美しいかと云う事を表現するのに苦心をする。それであるのに、三人目の男はとんでもなく白気《しらけ》きった顔つきで、「いや二百株ばかり、それもごくありふれた、種類の悪い躑躅が植えてある荒地《あれち》のような家敷跡《やしきあと》ですよ」という。で、私は度々|引込《ひっこ》みのならない恥《は》ずかしい思いをした。それで、まあ二人にでもなったならば思いきり立腹している風なところを見せようと考えていたのだけれど、――私達は一緒《いっしょ》になって間もなかったし、多少の遠慮《えんりょ》が私をたしなみ[#「たしなみ」に傍点]深くさせたのであろうか、その男の白々《しらじら》とした物云いを、私はいつも沈黙《だま》って、わざわざ報いるような事もしなかった。
もともと、二人もの男の妻になった過去を持っていて、――私はかつての男たちの性根を、何と云っても今だに煤《すす》けた標本のように、もうひとつ[#「ひとつ」に傍点]の記憶の埒《らち》内に固く保存しているので、今更《いまさら》「何《なん》ぞかぞ」と云い合いする事は大変|面倒《めんどう》な事でもあった。
二
二人目の男が、私を三人目の小松与一《こまつよいち》に結びつけたについては――
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お前を打擲《ちょうちゃく》すると
初々と米を炊《と》ぐような骨の音がする
とぼしい財布の中には支那《しな》の銅貨《ドンペ》が一ツ
叩《たた》くに都合《つごう》のよい笞《むち》だ
骨も身もばらばらにするのに
私を壁《かべ》に突き当てては
「この女メたんぽぽが食えるか!」
白い露《つゆ》の出たたんぽぽを
男はさきさきと噛《か》みながら
お前が悪いからだと
銅貨の笞でいつも私を打擲する。
[#ここで字下げ終わり]
二人目の男の名前を魚谷一太郎と云って、「俺《おれ》の祖先は、渡《わた》り者かも知れない。魚を捕《と》ってカツカツ食って行ったのであろう」そういいながらも、貧乏《びんぼう》をして何日も飯が食えぬと私を叩き、米の代りにたんぽぽを茹《ゆ》でて食わせたと云うては殴《なぐ》り、「お前はど
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