うしてそう下品な女のくせが抜《ぬ》けないのだ。衿《えり》を背中までずっこかすのはどんな量見なんだ」と、そう云って打擲し、全く、毎日私の骨はガラガラと崩《くず》れて行きそうで打たれるためのデク[#「デク」に傍点]のような存在であった。
 私はその男と二年ほど連れ添《そ》っていたけれど、肋骨《ろっこつ》を蹴《け》られてから、思いきって遠い街に逃《に》げて行ってしまった。街に出て骨が鳴らなくなってからも、時々私は手紙の中に壱円札《いちえんさつ》をいれてやっては、「殴らなければ一度位は会いに帰ってもよい」と云う意味の事を、その別れた男に書き送ってやっていた。すると別れた男からは、「お前が淫売《いんばい》をしたい故、衿に固練《かたねり》の白粉《おしろい》もつけたい故、美味《うま》いものもたらふく食べたい故、俺から去って行ったのであろう、俺は今日《きょう》で三日も飢《う》えている。この手紙が着く頃《ころ》は四日目だ、考えてみろ」――
 この華《はな》やかな都会の片隅《かたすみ》に、四日も飯を食わぬ男がいる。働こうにも働かせてくれぬ社会にいつもペッペッと唾《つば》きを吐《は》き、罵《ののし》りわめいている男が……私はこのような手紙には何としても返事が書けず、「あなたひとりに身も世も捨てた」と云う小唄《こうた》をうたって、誤魔化《ごまか》して暮していた。
 間もなく、魚谷と云う男も結婚《けっこん》したのであろう、大変楽し気な姿で、細々とした女と歩いているのを私は見た事がある。ちょうど、そのおり、私は白いエプロンを掛《か》けていたので、呼び止めはしなかったけれど、私も早く女給のような仕事から足を洗わねばならぬと、地獄壺《じごくつぼ》の中へ、働いただけの金を落して行く事を楽しみとしていた。
 それから、――幾月《いくつき》も経《た》たないで、正月をその場末のカフェーで迎《むか》えると、また、私は三度目の花嫁《はなよめ》となっていまの与一と連れ添い、「私はあれほど、一人でいたい事を願っていながら、何と云う根気のない淋しがりやの女であろうか」と云う事をしみじみ考えさせられていた。

     三

「君は前の亭主《ていしゅ》にどんな風に叱られていたかね……」
 与一は骨の無い方の鰺《あじ》の干物《ひもの》を口から離《はな》してこういった。
「叱られた事なんぞありませんよ」
「無い事はないよ、きっときつい目に会っていたと思うね」
 私は骨つきの方の鰺をしゃぶりながら風呂屋《ふろや》の煙突《えんとつ》を見ていた。「どんなに叱られていたか」何と云う乱暴な聞き方であろう、私は背筋が熱くなるような思いを耐《た》えて、与一の顔を見上げた。与一はくずぬいて箸《はし》を嘗《な》めていた。私は胃の中に酢《す》が詰《つま》ったように、――瞼《まぶた》が腫《は》れ上って来た。
「どうして、今更そんな事を云うの、私を苛《いじ》めてみようと思うンでしょう、――ねえ、どんなに貧乏しても苛めないで下《くだ》さいよ、殴らないでよね、これ以上私達豊かになろうなんて見当もつかないけれど、これ以上に食えなくなる日は、私達の上に度々あるでしょうし、でも、貧乏するからと云って、私の体を打擲しないで下さい。もしも、どうしても殴ると云うのンなら、私は……またあなたから離れなければならないもの、それに、私は今度殴られたら、グラグラした右の肋骨の一本は見事に折れて、私は働けなくなってしまうでしょう」
「ホウ……そんなに前の男は君を殴っていたのかね」
「ええこのボロカス女メと云ってね」
「道理で君はよく寝言《ねごと》を云っているよ。骨が飛ぶからカンニンしてッ、そう云って夢《ゆめ》にまで君は泣いているンだよ」
「だけど――けっして、別れた男が恋《こい》しくて泣いているんじゃないでしょう。あんまり苛められると、犬だって寝言にヒクヒク泣いているじゃありませんか」
「責めているわけじゃない。よっぽど辛《つら》かったのだろうと思ったからさ」

「この鰺はもう食べませんか」
「ああ」
 飯台が小さいためか、魚が非常に大きく見えた。頭から尻尾《しっぽ》まである魚を飯の菜にすると云う事は久しくない事なので、私は与一の食べ荒らしたのまで洗うように食べた。与一は皿《さら》の上に白く残った鰺の残骸《ざんがい》を見て驚いたように笑った。
「女と云う動物は、どうして魚が好きなのかね」
「男のひとは鱗《うろこ》が嫌《きら》いなンでしょう」
「鱗と云えば、お前が持って来た鯉《こい》の地獄壺を割ってみないかね、引越しの費用位はあるだろう」
「そうねえ、引越し賃位はね……でも八円のこの家から拾七円の家じゃア、随分《ずいぶん》と差があるし、それに、昨日《きのう》行って見たンだけれど、まるで狸《たぬき》でも出そうな家じゃありませんか」

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