から、薄い小米のような白い花が咲いた。
 壁のモジリアニも、ユトリオもディフィも、おそろしく退屈な色に褪《さ》めてしまって、私は、与一が毎朝出掛けて行くと、一日中呆んやり庭で暮らした。
 人気のない部屋の空気と云うものはいつも坐《すわ》っている肩の上から人の手のように重くのしかかって来る。まして家具もなく、壁の多い部屋の中は、昼間でも退屈で淋しい。

 青い空だ。
 白米のような三ツ葉の花が、ぬるく揺《ゆ》れている。
「小母《おば》さんはどうして帯をしないのウ」
 蛙の唄をうたった小里氏の男の子が、こまっしゃくれた首の曲げ方をして、私の腰のあたりを不思議そうに見ている。
「小母さんは帯をすると、頭が痛くなるからねえ」
「フン、――僕のお父《とう》ちゃんも頭が痛いの」
 私は、青と黄で捻《ひね》ったしで[#「しで」に傍点]紐《ひも》で前を合わせていた。――ああ、疲れた紅《あか》いメリンスの帯はもうあの朝鮮人の屑屋の手から、どこかの子守女へでも渡っている事だろう。帯を売って五日目だ。もう今朝《けさ》は上野へ行く電車賃もないので、与一は栗色《くりいろ》の自分の靴《くつ》をさげて例の朴のところへ売りに行った。
「何ほどって?」
「六拾銭で買ってくれたよ」
「そう、朴君はあの靴に四ツも穴が明いているのを知っていたんでしょうか?」
「どうせ屋敷めぐりで、穴|埋《う》めさ、味噌汁《みそしる》吸って行けってたから呑《の》んで来た」
「美味《うま》かった?」
「ああとても美味かったよ……弐拾銭置いとくから、何か食べるといい」
 私は今朝から弐拾銭を握《にぎ》ったまま呆んやり庭に立っていたのだ。松の梢では、初めて蝉《せみ》がしんしんと鳴き出したし、何もかもが眼に痛いような緑だ。
 唾を呑み込もうとすると、舌の上が妙に熱っぽく荒れている。何か食べたい。――赤飯に支那蕎麦、大福餅《だいふくもち》にうどん、そんな拾銭で食べられそうなものを楽しみに空想して、私は二枚の拾銭白銅をチリンと耳もとで鳴らしてみた。
 しんしんと蝉は鳴いている。
 透《す》けた松の植込みの向うを裸馬《はだかうま》が何|匹《びき》も曳《ひ》かれて通る。
「良いお天気で……」
 屑屋の朴が秤《はかり》でトントン首筋を叩きながら、枳の門の戸を蹴飛ばして這入って来た。
「朴さん、あの靴、穴が明いていたでしょうに……」
「よろしいよ。どうせ屋敷で儲《もう》けるからねえ」
「助かりましたわ」
「よろしいよ。小松さんは帰りは遅《おそ》いですか?」
「ええいつも夜になってから……」
「大変ですな。――ところで、石油コンロ買いませんか、金は三度位でよろしいよ」
「ええ……どの位ですウ」
「九拾銭でよろしいよ。元々、便利ですよ」
 朴は冷々と気持ちがいいのであろう、玄関の長い廊下に寝そべって、私が石油コンロを鳴らしている手附《てつき》を見ていた。大分、錆附《さびつ》いてはいたけれど、灰色のエナメルが塗ってあって妙に古風だ。心《しん》に火をつけると、ヴウ……と、まるで下降している飛行機の唸《うな》りのような音を立てる。
「石油そんなに要《い》りません。一|鑵《かん》三月《みつき》もある。私の家もそう」
 石油コンロを置いて朴が帰ると私はその灰色の石油コンロを、台所の部屋の窓ぎわに置いて眺めた。家具と云うものは、どうしてこんなに、人間を慰めてくれるのだろう。

 夕方井戸端で、うどんを茹《ゆ》でた汁を捨てていると、小里氏の子供が走って来て空を見上げた。
「ねえ、小母さん! 飛行機が飛んでらア」
「どこに?」
「ホラ、音がするだろう……」
 私は、空を見上げている子供の頭を撫《な》でていった。
「小母さんところの石油コンロが唸っているのよ、明日お出《い》で、見せて上げるから……」
 そういって聞かせても、子供は、(炭や薪《まき》で煮焚《にた》きしているのであろう、小里氏の屋根の煙を私は毎日見ている)不思議そうに薄暗い空を見上げて、「飛行機じゃないの」といっていた。

     九

 与一は日記をつけることがこまめ[#「こまめ」に傍点]であった。私であったら、馬鹿らしく、なにも書かないでいるだろう、そんな無為《むい》に暮れた日でも、雨だの、晴れだの与一は事務のようにかき込んでいた。
 雨だの晴れだのが毎日続くと、与一自身もやりきれなくなってしまうのか、ついには「蚊帳《かや》が欲しい」とか「我もし王者なりせば[#「我もし王者なりせば」に傍点]と云う広告を街で見る」そんな事などが書き込まれるようになった。
 だが飢える日が鎖《くさり》のように続いた。もうこまめ[#「こまめ」に傍点]な与一も日記をほうりっぱなしにして薄く埃をためておく事が多くなった。
 そうして、日記の白いままに八月に入ったある朝、――跌《つま
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