た。
「日当弐円五拾銭だちって、こうなると、五拾銭引いてやがる。おまけに、会場の方は俺達の分を四円位にしといてピンを刎《は》ねるンだから、やりきれないさ」
 それでも、参拾円近い現金は、ちょっと胸がドキリとするように嬉《うれ》しかった。
「でも、故意に喧嘩して、止《や》めさせるンじゃないの?」
「そうでもないだろうが、皆《みな》不平を云いながら、前へ出るとペコペコしてるンだからね」
「そンなものよ」

 久《ひさ》し振《ぶ》りに石油を一升買った。
 灰色の石油コンロは、円《まる》い飛行機のような音をたてて威勢《いせい》よく鳴っている。
 二人は庭へ出て水を浴びた。
 黝《あおぐろ》くなった躑躅の葉にザブザブ水を撒いてやりながら、何気なく与一の出発の日の事を考えていた。
「もう後六日で兵隊だねえ……」
「ああ」
「留守《るす》はどうしよう」
「参拾円近くあるじゃないか、俺の旅費や小遣《こづか》いは五円もあればいいし、家賃は拾円もやっとけば、残金で細々食えないかい?」
「そうだね」
 気合術診療所から貰って来たトマトの苗が、やっと三ツばかり黄色い花を咲かせていた。あの花が落ちて、赤い実が熟する頃は帰って来るのだろう。――私一人で何もしない生活の不安さや、醤油飯の弁当を持って海兵団へ仕事に行っていた義父が、トロッコで流されたという故郷からの手紙を見て、妙に暗く私はとらわれて行った。

 唐津出来《からつでき》の茶碗《ちゃわん》や、皿《さら》や丼《どんぶり》などを、蓙《ござ》を敷いて、「どいつもこいつも、茶碗で飯を食わねンだな、ホラ唐津出来の茶碗だ。五ツで二分と負けとこウ、これでも驚かなきゃ、ドンと三|貫《かん》、ええッこの娘もそえもンで、弐拾五銭、いい娘だぜ、髪が赤くて鼻たらし娘だ!」
 私は、長崎《ながさき》の石畳の多い旧波止場で、義父が支那人の繻子《しゅす》売りなんかと、店を並べて肩肌《かたはだ》抜いで唐津の糶《せり》売りしているのを思い出した。黄色いちゃんぽん[#「ちゃんぽん」に傍点]うどんの一|杯《ぱい》を親子で分けあった長い生活、それも、道路|妨害《ぼうがい》とかで止《や》めさせられると、荷車を牽《ひ》いて北九州の田舎をまわった義父の真黒に疲れた姿、――私は東京へ出た四年の間に、もう弐拾円ばかりも、この貧しい両親から送金を受けている。

 結局、義父たちが佐世保に落ちついてもう一年になるけれど、海兵団のトロ押しが、とうとう義父の働く最後であったのかも知れない。
 暗雲《やみくも》にヒッパクした故郷からの手紙だ。
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――それで、おまえが、なんとかなれば七円ほど、くめんをして、しきゅう、たのむ、おとっさんも、いたか、いたか、きってくれ、いいよんなはる。せきたんさんで、あらいよっとじゃが、びょういんにいったほうが、よかあんばいのごとある。
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 私は夕飯の済んだ後、与一に故郷からの手紙を見せようと思った。与一は何か考えているのであろう、何となく淋しそうに窓に凭れて唄をうたっていた。その唄の節はひどく秋めいた、憂愁《ゆうしゅう》のこもったものであった。私は何度となく熱い茶を啜《すす》りながら、手紙を出す機会を狙《ねら》っていたが、与一はいつまでもその淋し気な唄を止めなかった。

     十一

 沈黙《だま》って故郷へは送金しよう、――私はそう思って毎日与一の額の繃帯を巻いてやった。
「ちょっとした怪我《けが》でも痛いンだから、これで腕《うで》や脚《あし》を切断するとなると、どんなでしょう?」
「それはもう人生の終りだよ、俺だったら自殺する」
「働かないとなると、生きていても仕様がないからね……」

 与一が、山の聯隊《れんたい》へ出発した日は、空気が灰色になるほど風が激しかった。「まるで春のようだ、気持ちの悪い風だ」誰もそういいながら停車場に集った。
「石油コンロは消してあったかい?」
 与一は、こんな事でもいうより仕方がないといった風に、私の顔を見て笑った。
 奉公袋《ほうこうぶくろ》を提げて下駄《げた》をはいた姿は、まるで新聞屋の集金係りのようで、私はクックッと笑い出して、「火事になった方がいいわ」と、言葉を誤魔化した。
「一人で淋しかったら、診療所の娘でも来てもらうといい」
「大丈夫ですよ、一人の方が気楽でいいから……」
 与一に対して、何となく肉親のような愛情が湧《わ》いた。かつての二人の男に感じなかった甘《あま》さが、妙に私を泪もろくして、私は固く二重|顎《あご》を結んで下を向いた。
「厭ンなっちゃう、まったく……」
 私は甘いものの好きな与一のために、五銭のキャラメルと、バナナの房《ふさ》を新聞に包んで持たせてやった。
「どうせ今晩は宿屋へでも泊《とま》るンでしょう?」

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