掛蒲団一枚と熟柿《じゅくし》のような、蕎麦殻《そばがら》のはいった枕を一ツ持っていた。私は枕がないので、座蒲団を二ツに折って用いていたので、そう不自由ではなかったが、目立ってその座蒲団がピカピカ汚《よご》れて来るのが苦痛であった。それで枕は二ツいるのだろうと云って寄こした母の心づかいに対して、私は二ツ返事で欲しかったのではあったが、枕は一ツでよいと云う風な、少々ばかり呆《ぼ》やけさせた思わせ振りを書き送ってやったのである。すると最も田舎風な、黒塗《くろぬ》りの枕を私は一ツ手にした。死んだ祖母の枕ででもあったのであろうが、小枕が非常に高いせいか、寝ているのか起きているのか判《わか》らないほど、その枕はひどく私の首にぴったりとしない。
 後、私は蒲団の事については、長々と母へ礼状を書き送ってやったのであるが、枕の事については、礼の一言も、私は失念したかの形にして書き添えてはやらなかった。

     五

 躑躅はもちろん、うつぎや薊《あざみ》の花や桐《きり》の木が、家の周囲を取り巻いていた。この広い屋敷の中には、私達の家の外に、同じような草花や木に囲まれた平家《ひらや》が、円を描《えが》いたようにまだ四軒ほども並《なら》んでいた。
 家の前には五六十本の低い松の植込みがあって、松の梢《こずえ》から透《す》いて見える原っぱは、二百|坪《つぼ》ばかりの空地《あきち》だ。真中《まんなか》にはヒマラヤ杉が一本植っている。
「東京中探しても、こんな良い所は無いだろうね」
 与一はパレットナイフで牡蠣《かき》のように固くなった絵の具をバリバリとパレットの上で引掻《ひっか》きながら、越して来たこの家がひどく気に入った風であった。
 玄関《げんかん》の出入口と書いてある硝子戸《ガラスど》を引くと寄宿舎のように長い廊下《ろうか》が一本横に貫《つらぬ》いていて、それに並行《へいこう》して、六|畳《じょう》の部屋が三ツ、鳥の箱のように並んでいる。
「だけど、外から見ると、この家の主人は何者と判断するでしょうね、私はブリキ屋か、大工でも住む家のような気がして、仕方がないのよ」
「フフン、お上品でいらっしゃるから、どうも似たり寄ったりだよ。ペンキ屋と看板出しておいたらいいだろう。――だが、こんな肩《かた》のはらない家と云うものは、そう探したってあるもンじゃないよ。庭は広いし隣《とな》りは遠いしねえ……」
「隣りと云えば、今晩は蕎麦を持って行かなければいけないのだけれど、どうでしょうか」
「幾つずつ配るもンだ?」
「そうね、三つずつもやればいいンでしょう」
 引越した初めというものは、妙に淋しく何かを思い出すのだ。私は何度となくこのような記憶がある。別れた男達と引越しをしては蕎麦を配った遠い日の事、――もう窓の外は暗くなりかけている。私は錯覚《さっかく》を払《はら》いのけるように、ふっと天井《てんじょう》を見上げた。
「オヤ、電気もまだ引いてないンですよ」
「本当だ、引込線も無いじゃないか、二三日は不自由だね」
 長い間の習癖《しゅうへき》と云うものは恐ろしいものだ。私は立ち上ると、人差指で柱の真中辺を二三度強く突いて見た。すると、私自身でも思いがけなかったほど、その柱はひどくグラグラしていて天井から砂埃《すなぼこり》が二人の襟足《えりあし》に雲脂《ふけ》のように降りかかって来た。
「ねえ、これはあンた、潰《つぶ》しにしたってせいぜい弐参拾円で買える家ですよ。どう考えたって、拾七円の家賃だなんて、ひどすぎるわ、馬鹿《ばか》だと思うわ」
 与一は沈黙《だま》って、一生懸命《いっしょうけんめい》赤い鼻の先を擦《こす》っていた。「この女は旅行に出ても、色々と世話を焼きたがる女に違いない。前の生活で質屋の使いや、借金の断りや、家賃の掛引《かけひき》なんぞには並々《なみなみ》ならぬ苦労を積んで来たのであろう」与一はそんな事でも考えていたらしく、ズシンと壁に背を凭《もた》せかけて言った。
「僕《ぼく》はとてもロマンチストなんだからね、だが、君のどんなところに僕は惹《ひ》かされたンだろう……」
 そうむきになって云われると、私はまた泪《なみだ》ぐまずにはいられなかった。「またこの男も私から逃げて行くのだろうか」男心と云うものは、随分と骨の折れるものだ。別れた二人の男達も、あれでもない、これでもないと云って、金があると埒《らち》もなく自分だけで浪費《ろうひ》してしまって、食えなくなるとそのウップンを私の体を打擲する事で誤魔化していた。
「ねえ、私のような女は、そんなに惹かされない部類の女なの? だって夫婦《ふうふ》ですものね、それに、私は誰からも金を送ってもらう当《あて》はないし……」
 与一は二寸ばかりの黄色い蝋燭《ろうそく》を釘《くぎ》箱の中から探し出すと、灯をつけて
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