台所のある部屋《へや》の方へ疳性《かんしょう》らしく歩いて行った。真中の暗い部屋に取り残された私は、仕方なく濡《ぬ》れた畳《たたみ》に腹這《はらば》って、袖《そで》で瞼をおおい、「私だってロマンチストなのよう」と何となく声をたてて唄ってみた。
六
長いこと、人間が住まなかったからであろう、部屋の中は馬糞紙《ばふんし》のような、ボコボコした古い匂《にお》いがこもっていて、黒い畳の縁には薄く黴《かび》の跡《あと》があった。
「おい、隣りだけでも蕎麦を持って行っといた方が都合がいいぜ、井戸《いど》が一緒らしいよッ」
カツンカツン鴨居《かもい》に何かぶっつけながら与一は不興気に私に呶鳴《どな》った。
私は参拾銭の蕎麦の券を近所の蕎麦屋から一枚買って来ると、左側の一軒目の家へ引越しの挨拶《あいさつ》に出向いた。
隣りと云っても、田舎風にポツンポツンと家の間に灌木《かんぼく》が続いているので、見たところ一軒家も同然のところである。私は何度も水を潜《くぐ》って垢《あか》の噴《ふ》き出たようなネルの単衣《ひとえ》を着て、与一のバンド用の、三尺帯をぐるぐる締めていた。
「何をする人だろう」と考えるに違いない。尋《たず》ねた場合は、「絵の先生をしています」とでも濁《にご》しておこうと、私は私の家と同然な御出入口と書いてあるその硝子戸を引いた。
この家の主《あるじ》は、よっぽど白い花が好きと見えて、空地と云う空地には、早咲《はやざ》きの除虫菊《じょちゅうぎく》のようなのが雪のように咲いていた。
家根《やね》の上から白い煙《けむり》があがっている。
花の蔭《かげ》では、蛙《かえる》が啼《な》くから帰ろうと歌って、男の子がポツンとひとりで尿《いばり》をしている。
一軒だけ挨拶を済まして帰って来ると、与一は、私が買って来ておいた、細い壱銭蝋燭に灯をつけて台所に続いた部屋の壁に何かベタベタ張りつけていた。
家の中はもう真暗だ。
「何をする人なンだ?」
「煙草《たばこ》専売局の会計をしてるンですってよ」
「ホウ、固い方なンだね」
土色の壁にはモジリアニの描いた頭の半分無い女や、ディフィの青ばかりの海の絵が張ってあった。
こんな出鱈目《でたらめ》な色刷でも無聊《ぶりょう》な壁を慰《なぐさ》めるものだ。灯が柔《やわらか》いせいか、濡れているように海の色などは青々と眼にしみた。
「その隣りが気合術|診療所《しんりょうじょ》よ」
「ヘエ、どんな事をやるンかね」
「私一人でこの家を見に来た時、気合術診療所の娘が案内してくれたのよ、とてもいい娘だわ」
「そう云えば、僕もあの娘が連れて来てくれたんだが、俺ンとこと同じようなもンらしい、瓜《うり》、トマト、茄子《なす》の苗《なえ》売りますなんて、木の札《ふだ》が出てるあそこなんだろう」
与一が灯を持って、三ツの部屋を廻るたび、私はまるで蛾《が》のようにくっついて歩いた。右側の坊主《ぼうず》畳の部屋には、ゴッホの横向きの少女が、おそろしく痩《や》せこけて壁に張りついている。その下には箪笥《たんす》の一ツも欲しいところだ。この部屋は寝室《しんしつ》にでも当てるにふさわしく、二方が壁で窓の外には桐の枝《えだ》がかぶさり、小里万造氏の台所口が遠くに見えた。
真中の部屋はもちろん与一のアトリエともなるべき部屋であろうが、四枚の障子《しょうじ》が全部廊下を食っているので、三ツの部屋の内では、一番そうぞうしい位置にあった。
与一は、この部屋に手製の額に入れた自分の風景画を一枚|飾《かざ》りつけた。あんまりいい絵ではない。私はかつて、与一の絵をそんなに上手《じょうず》だと思った事がない。それにひとつは私は、このように画面に小さく道を横に描くことはあんまり好きでないからかもしれない。「私は道のない絵が好きなんだけれど」そうも言ってみた事があるけれど、与一はむきになって、茶色の道を何本も塗りたくって、「君なんかに絵がわかってたまるもンか」と、与一はそう心の中で思っているのかも知れない。
七
山は静かにして性をやしない[#「山は静かにして性をやしない」に傍点]、水は動いて情を慰む[#「水は動いて情を慰む」に傍点]、静動二の間にして[#「静動二の間にして」に傍点]、住家を得る者あり[#「住家を得る者あり」に傍点]、私は芭蕉《ばしょう》の洒落堂《しゃれどう》の記と云う文章の中に、このようにいい言葉があると与一に聞いた事がある。
そんなによい言葉を知っている与一が、収入の道と両立しない、法外もなく高い家賃で、馬かなんぞでも這入って来そうな、こんな安住の出来そうもない住家に満足している事が淋しかった。
台所の流しの下には、根笹《ねざさ》や、山牛蒡《やまごぼう》のような蔓草《つるくさ》がは
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