勉強もおろそかになってしまって、三年四年となるにつれて、私はせいせき[#「せいせき」に傍点]が段々悪くなって、卒業する時は八十七分の八十六番位で出たと思う。国語も作文も図画も乙ばかりだった。
 その時の校長を佐藤正都知と云った。私の家族はその頃尾道の近在を行商してまわっていたので、学校から帰っても誰もいなかったし、家の前のうどんやで、毎晩、私は夕飯を食べるようになっていた。一ヶ月分の金があずけてあって、夕方になると私はそのうどん屋の細長い茶向台で御飯をたべた。ある夕方、私は御飯をたべてこのうどん屋から出かけると、ちょうど遅く学校から帰って来ていた校長に逢った。その翌日、学校から母へ呼び出し状が来たがこの忙がしいのにそれどころではない、面倒なことを云われたら止《や》めてしまえとそのままになった。私は学校中でもいけない部類の生徒になって、しまいには、何かが無くなっても私にかぶせられた。新らしい上草履《うわぞうり》を買ってはいていると、受持ちの図画の市河と云う教師に呼ばれて、その草履は誰それのものではないかと云われた。私は朝、自分でその草履を買ったばかりで名前を書くひまもなかったが、教室へ帰ると、その時ばかりは学校へ火をつけてやりたかった。その草履については、母が、お前の身分としては竹の皮の表でよいと云うのを無理矢理八銭ほどはまらせて、畳表《たたみおもて》の麻裏を買ったもので、あとで、同組の生徒が告げ口したと云うことを聞き、その生徒の前で怒鳴《どな》ったことがあった。私は、仲のいい友達がひとりもなかった。川添と云う少女とは組が別れて、私は英語の多い級にいたのでめったに逢えなかった。
 私は一年生の時は百人の組《くらす》で十一番であったが、卒業する折は、満足に卒業出来るかと心配した位で、好きな学課は、地理と英語と国語と歴史と作文と図画であった。どれも乙ばかりで、三、四年の頃好きだった図画も乙ばかりだった。図画の宿題には、講談倶楽部か何かの口絵を描いて来る少女が一番いいせいせき[#「せいせき」に傍点]で、私のように静物や風景を写生してゆくのには、何時《いつ》も乙か丙をくれた。今考えだしても学校時代は何の愉《たの》しみもなかった。私は、あんまり女学校時代のことを書かないけれども、森先生以外にはなつかしいと思う先生がひとりもない。卒業も出来かねた私を卒業さしてくれたのは大井先生だ
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