教師に呼ばれて色々なことをたずねられるのであったが、私たちはまだ一年生で恋人もなければ同性愛もなく、別にとりたてて調べることもないのであったが一人ずつ呼ばれた。私も何人めかに呼ばれて、森先生は呆んやりした何時《いつ》もの日向ぼっこのしせい[#「しせい」に傍点]で「どんな本を読んでいるか」とたずねた。私は『復活』と『書生かたぎ』と云うのを読んでいると云ったら、すこし早すぎるとそれだけであった。
森先生は、私たちが二年になると千葉の木更津《きさらづ》中学へ転任してゆかれた。めだたないひとだったので誰も悲しまなかった。先生の家族を停車場へおくって行ったのは生徒で私ひとりであった。私はそれからも、その先生の恩に報いるため、母にねだっては時々名物の飴玉《あめだま》を少しばかり送った。(坊ちゃんが二、三人あったように記憶していたので)暫《しばら》くして、私たちの国語の教師には早大出の大井三郎と云うひとがきまった。まだ二十四、五のひとで、生徒たちにたちまち人気が湧き、国語や作文の時間が活気だってきた。夜なんかも、この先生の下宿先きには上級生たちがいっぱい群れていた。私はこの先生に文章|倶楽部《くらぶ》と云うのを毎月借りていた。大井先生はまた私に色々な本を貸してくれた。広津和郎《ひろつかずお》の『死児を抱いて』と云う小さい本なぞ私は愕きをもって読んだものであった。
ある日、昼の休みに講堂の裏で鈴木三重吉《すずきみえきち》の『瓦』と云う本を読んでいた。校長がぶらりとやって来て、此様な社会の暗黒面を知るような本を読んではいけないと云った。私は大変いい本だと思いますと云うと、そのあくる日の朝礼の時間に、校長がひとくさり、小説の害を説いて降壇すると、その後に若い国語の大井先生が「小説を読むふとどき[#「ふとどき」に傍点]な生徒がいることは困ったことです」と登壇された。私は首をたれていたが、この若い教師の言葉をそのときほど身に沁《し》みて考えたことはなかった。その『瓦』と云う本は大井先生に借りていたものであった。森先生に伸々《のびのび》とそだてられていた私は、小説を読むことをそんなに害とも思わなかったし、学校で読んで悪いことも、そんなに気にしていなかったので、それからと云うもの、私はこの若い国語教師にうっすらと失望を感じ尊敬を持たなくなった。学校へは一切小説本を持ちこまなくなったかわり、
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