。そのシャックリの語尾《ごび》はまるで羊が鳴いているようにメーと聞えた。
「何だ! 子供みたいに、もうこれから、こんな余計な算段は止《や》めた方がいいよ、判ったかね」
僕は窓にぶらさがっている濡《ぬ》れタオルを彼女に取ってやって、一人《ひとり》窓の外の花の咲《さ》いた桐《きり》の梢《こずえ》を見上げた。
実に青々とした空であった。僕は、何でもいいからつくづく働きたいと思った。働いてこの蟹《かに》の穴のような小さな家庭を培《つちか》って行きたいと思った。僕は急に、久し振りに履歴書《りれきしょ》をまた書きたくなって、硯《すずり》に白湯《さゆ》を入れ、桐の窓辺に机を寄せて、いっときタンザしてみた。うつむいていると、美濃紙《みのがみ》が薄《うす》く白いので、窓の外の雲の姿や桐の梢の紫《むらさき》の花の色まで沁《し》みて写りそうであった。
もはや、行きつくところまで行った風景でもある。彼女はもう泣く事にも飽《あ》いたのか、五月の冷々《ひえびえ》とした畳《たたみ》の上にうつぶせになって、小さい赤蟻《あかあり》を一|匹《ぴき》一匹指で追っては殺していた。
「ねエ、私、お裁縫《さいほう》の看板
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