のように呆《ぼ》んやりみひらいている僕の肩を叩《たた》いて車掌《しゃしょう》が気味悪そうに云った。
 今までに、青年らしい楽しみも希望も随分考えて来たが、僕の青春には、ただ「浮世には思い出もあらず」と云う言葉だけが残っただけだ。
 彼女は灯もつけずに庭にいた。
「みみずを掘《ほ》っているの……」
 手には空鑵《あきかん》をさげて、黒い土をほじくっていた。みみずは百|匁《もんめ》掘れば、いくら[#「いくら」に傍点]になるとか、またどこかで聞いて来たのだろう。
 僕は部屋へ這入って電気をつけた。机の上には、何かまた彼女の落書が書いてある。「一、魚の序文。二、魚は食べたし金はなし。三、魚は愛するものに非《あら》ず食するものなり。四、めじまぐろ、鯖《さば》、鰈《かれい》、いしもち、小鯛《こだい》。」
 彼女は猫《ねこ》のように魚の好きな女であった。どんな小骨の多い魚でも、身のあるところをけっして逃《のが》さなかった。――僕は字引を金に替えた奴の残りを袂の底に探ってみた。まだ五十銭も残っていた。この金を、どうして楽しませてやったらいいだろう。
「おい、みみずは取れたかい?」
「まだまだ、今朝《け
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