物を早くお送りなさいまし、女手が多いのですから片づけといて上げます」僕は僕の部屋になるのだと云う書生部屋もさっき見た。高窓が一ツに壁上には、判読するに困難な字が掛けてあった。あの洗い流したように古びた畳の色など、僕にはもう縁《えん》なき衆生《しゅじょう》であるかも知れぬ。
「前にいた書生さんは、この高窓からばかりカチカチカカチなんて拍子木《ひょうしぎ》を打つんでしょう、そりゃアおかしい人でしたよ。自分が恐《こわ》いんで近所の野良犬《のらいぬ》を五六匹も集めたりしていたンですの……」

 僕は、無意味な壁ばかりを見て歩いた事をひどく後悔《こうかい》した。人の住まっていない無数の壁を警護するために、彼女と離れて別れてまで暮《くら》す心はない。では、どうして食って行くのだ。「浮世には思い出もあらず」また墓標の裏の言葉が胸を突《つ》いて出た。――我々置き去りにされたインテリはいったいどうすればいいのだ。人生はまるで今日見たあの壁の中みたいじゃないか、あッちを向いても、こっちを向いても、壁々、壁だ、壁なのだ。
 いったいどうしろと云うのだ。
「もしもし終点でございますよ」眼だけが空洞《くうどう》
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