#「うらめしい」に傍点]か、なるほどねえ」
 こましゃくれた奴だ。彼女は米さえ買って来ると唱歌が上手になる。一坪の厨《くりや》は活気を呈《てい》して鰯《いわし》を焼く匂いが僕の生唾《なまつば》を誘《さそ》った。
 たった五十銭の収入で驚《おどろ》くべき生活のヒヤクだ。僕もあわただしく机へ向った。今は黄いろくなって古びたりと云えど、プウシュキンの訳に手を入れてみるべきだ。彼女は十日かかって五十銭の収入を得て来ている。そうして彼女の唱歌は実に可憐《かれん》だ。――僕は膝《ひざ》を正して字引を繰《く》ったが、字引の冷たさは、僕をまた白々しいものにする。字引を売って、魚に変えた方がましだ。鰯の匂いは、懐《なつ》かしい匂いであった。
「さア食べましょう。実に久し振りに、実に実に……私アーメンと云いたくなるわ。あなたのよく云う食べるだけなのかい人間って奴はッて云うのを止めましょう。さあいらっしゃいよ」
 玄関《げんかん》の食卓には、墓場から盗って来たのであろう桃《もも》色の芍薬《しゃくやく》が一輪コップに差してあった。二人は夢中《むちゅう》で食べた。実に美しくつつましい食慾《しょくよく》である。彼
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