で亡くなった、この新墓の主の墓標の言葉に、僕は全く口笛《くちぶえ》さえ吹きたくなったほど気持ちが軽くなった。
「浮世には思い出もあらず」何とすがすがしく云い放ったものであろう。灰色の墓原の向うにこの僕の心に合わせて、誰か口笛を吹いて通る者がある。

 帽子の釘《くぎ》に一緒にぶらさげた電気に灯がはいると、彼女は風呂敷を米で針坊主《はりぼうず》のようにふくらまして帰って来た。
「五拾銭|貰《もら》って来たのよ。ちぬ子さんたらあんまり上手《じょうず》じゃないわねえッて云うの」
「あいツ、お前の縫った着物を着たら体が腫《は》れあがって来るだろうさ、――ところで、今日《きょう》墓の中でいい言葉をみつけて来たよ」
「どんな言葉?」
「いいや、別にあらたまるほどじゃないが、明日、またどッかへ花を持って行くところはないかね。グラジオラスやチウリップがたくさんあったよ、その墓の主なら咎めだてはしないだろう――『浮世には思い出もあらず』と書いてあったのさ」
「浮世には思い出もあらず[#「浮世には思い出もあらず」に傍点]、変に気取った奴ね、私だったら『うらめしい』と書いてもらうわ」
「ええッ、うらめしい[
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