百円にもならなかったと云う侘しさを。半年の情熱をかたむけて訳したその人の気持ちはこれまた侘しすぎる以上だろう。
――僕は一二年前の大学生活の中に、かつて一度も生活の不安を感じた事はなかったはずだったが、いや、生活の事を考えるのが恐ろしかったのかも知れない、薄暗い珈琲《コーヒー》店の片隅で考える事は愚《ぐ》にもつかない外遊の空想などばかりであった。
僕はまた、壁の帽子をかぶって、彼女の厭がるステッキを持った。墓の中の散歩をこころみるべく、僕もまた彼女の去った墓の道へ出てみた。熱ばんでたまらないと云った風に、雀《すずめ》達が、ころころ地べたを転がるように飛んでいる。なるほど、彼女が云ったように、新墓には草のように花がそなえてあった。もう萎《な》えかけたのなどもある。三十歳、十五歳、十九歳、皆、若い仏達であった。その中で一ツ僕の眼をとらえた紀意大善姉と書いてある墓標があった。墓標の裏には、レニエエか何かの「浮世《うきよ》には思い出もあらず」と記してあったが、この言葉は今の僕の心をひどく温めてくれるものがあった。二十八歳としてあるが、どんな女性だったのだろうか……僕と同じ年齢《ねんれい》
前へ
次へ
全26ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング