ううん……新墓へ行って盗《と》って来ちゃったのよ。私、もったいないと思うたわよ。だって随分あるの、お金持ちのお墓なんて十円位も花束があがっててよ……」
「で、お土産に利用するのかい、仏も浮《うか》べないねえ……」
「だって美しい花だものほしいわ」
彼女は、その花束を如何にも花屋から買ったかのように紙に包んで、風呂敷をかかえ日向《ひなた》の道へ小犬のように出て行った。
僕は起きあがって窓ッぷちへ腰を掛けて墓の道を眺めた。墓を囲んだ杉《すぎ》や榎《えのき》が燃えるような芽を出している。僕にはなぜか苦しすぎる風景であった。夜が待ち遠しい位だ。早く夜になってくれるといい。部屋の中に空箱《あきばこ》のように風が沁みて行ったが、生きている喜びも何も感じられないほど、すべてが貧弱なもので、二|畳《じょう》と八畳きりの座敷の中には、この僕一人が道具らしい存在だ。歪《ゆが》んだ机の上には、訳しかけのプウシュキンの射的の草稿《そうこう》が黄いろくなったままだが、もうこんなものも売りに歩く自信もなくなりかけた。僕はふと誰かの話を憶い出した。バルザックのプチイ・ブルジョアを半年かけて訳して、六百枚あまりが
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